フェアレディZ432
鮮烈な速さを印象づけた生粋サラブレッド
最強のフェアレディZ、それが“432”だ。
レーシングフィールドから生まれた珠玉の
S20型DOHC24Vユニットを搭載し,
210km/hのトップスピードをマークしたトップアスリートである。
432のネーミングは“4バルブ、3キャブ、ツインカム”に由来し、
高度なメカニズムをストレートにアピールしていた。
世界のスポーツカーシーンを変革した初代Z-CARの頂点。
しかし、その生涯は意外なほど短命だった。
プリンス・スカイライン(ALSI)
先進技術を投入したこだわりセダン
歴代スカイラインは、独自の個性を持つクルマだ。
この伝統は1957年4月に登場した初代モデルから変わらない。
高い技術レベルを誇った開発陣のこだわりは
従来にないタフさと快適性の融合。
初代モデルは、国産初のド・ディオン・アクスルを採用した足回りや
パワフルなエンジンで俊敏で快適な走りを実現し
伸びやかなスタイリングでユーザーを魅了した。
イタリアンデザインのパーソナルカーも話題を呼ぶ。
フェアレディ2000
気骨あふれるスパルタン・スポーツ
フェアレディ2000は圧倒的な性能が魅力の “貴婦人”。
トップスピード205km/hを誇り、
ゼロヨン加速は当時日本車最速の15.4秒。
トラディショナルな2シーターオープンながら、
鮮烈なパフォーマンスでモータースポーツでも大活躍した。
ドライビングには相応のテクニックを必要としたが
それさえも魅力だったスパルタン・スポーツ。
アメリカでも愛された国際派レディである。
チェリー1200X-1
欧州で評価された“超えてる”FFコンパクト
1970年に登場したチェリーは
クラスレスの魅力を発散する“革新”の小型車だった。
エンジン横置きのFFシステムをはじめ、
メカニズムはすべてが新しく、スタイリングも新鮮。
旧プリンスの設計チームが手がけただけに
時代をリードする新しさに満ち溢れていた。
とくにスポーツモデルのX-1は、鮮烈な走りのマシン。
欧州でも高い評価を受けたエポックモデルだ。
スカイライン2000GT
スポーツカーの速さを持った“初代赤バッジ”
スカイライン2000GTを生みだしたもの、
それは誇り高いプリンス技術陣の悔しい思いだった。
1963年の第一回日本グランプリでプリンスは
メーカー間の紳士協定を忠実に守り
市販状態そのままのクルマで参戦。惨敗を喫する。
自らの技術力に対し絶対的な自信を持っていたプリンスにとって
敗北は受け入れることのできない屈辱だった。
第二回日本グランプリでは絶対に優勝する!
その強い意思が奇跡を生み、スカイライン神話を樹立する。
A50ケンブリッジサルーン
乗用車作りを学んだ日産の記念碑
日産が“技術の日産”として発展し
世界をリードするクルマを作り出した裏には
よき師の存在があった。英国のオースチンである。
先進の乗用車作りを学ぶため日産は1952年に英国オースチンと提携。
主力モデルだったA40サマーセットサルーンのノックダウンを開始する。
1955年、A50ケンブリッジサルーンに生産車をスイッチしてからは
国産化が進み、1956年8月には完全な国産化を達成した。
日産がオースチンで培った技術はブルーバードやセドリックに発展し、
日本のモーターリーゼーションの牽引者の地位を明確にする。
日産の歴史3 第三期/1973-1984
排出ガス規制の克服と車種の拡大
1970年代中盤の日産自動車は、
他メーカーと同様に石油危機による供給制限と
排出ガス規制への対応に苦慮することになる。
難題を克服した同社は、1970年代末ごろから
車種展開の拡大と施設の増強を実施し、
トヨタへの追撃体制を構築していった──。
日産の歴史2 第二期/1960-1972
乗用車とスポーツカーでの躍進した黄金期
ダットサン・ブルーバードのヒットや
中型乗用車のセドリックのデビューなどで、
快進撃を続ける1960年代の日産自動車。
1966年にはプリンス自動車を合併して、
車種展開の拡大と新技術の導入を図る。
モータースポーツにも積極的に参戦した。