ライバル/スバル360 vs ホンダN360 【1967】

360cc軽自動車の主役交代〜てんとう虫からNコロへ

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軽自動車規格の登場と発展

 日本独特のコンパクトカーとして、高い人気を集める軽自動車カテゴリー。その始まりは、1949年に施行された運輸省令「車両規則」第3条第2項に規定されたことに端を発する。ここで自動車の種類は軽自動車、小型自動車、普通自動車、特殊自動車の4つに区分され、軽自動車はボディサイズが全長2800×全幅1000×全高2000mm、エンジン排気量が4サイクル150cc以下、2サイクル100cc以下と規定された。

 1950年になると、軽自動車の車両規則が改正される。ボディサイズは全長3000×全幅1300×全高2000mmとなり、エンジン排気量は4サイクル300cc以下、2サイクル200cc以下に拡大された。さらに、4/3/2輪の区別も新設する。ただし、この規定はクルマの成立性、とくにエンジン排気量に問題があり、翌'51年には4サイクル360cc以下、2サイクル240cc以下にスケールアップ。2輪車と2輪車以外という区分も設けられる。さらに翌年には、軽自動車運転免許も新たに設定された。

 軽自動車規格は1954年にエンジン排気量が2/4サイクルともに360ccに統一される。さらに、翌1955年に通産省から「国民車育成要綱案」が発表されると、多くの自動車メーカーが軽乗用車の開発に注力するようになった。

日本の代表的な国民車に位置づけられた「スバル360」

 国民車構想に刺激を受けた富士重工業は、軽自動車規格での国民車の開発に着手する。社内呼称“K-10”と定めたクルマの開発過程は、しかし並々ならぬ苦労を要した。
 国民車“K-10”の基本コンセプトは「大人4名がゆったりと乗れること」で、開発陣はまず最初に全長3000×全幅1300mmの長方形を描き、そこに4つの座席をできるだけゆったりととることから検討を始める。残ったスペースに割り当てるドライブトレーンは、様々な議論を重ねた結果、RR(リアエンジン・リアドライブ)に決定した。乗り心地のよさを最重要視したサスペンションは、前輪トレーリングアーム/後輪スイングアームの四輪独立懸架を採用。肝心のボディに関しては、モノコック式を基本としながら徹底した軽量化を図り、スタイリングは高い剛性を確保するために曲面デザインでアレンジする。エンジンはスクーター用を発展させた2サイクル空冷2気筒356ccを積み込んだ。

 富士重工業渾身の国民車は「スバル360」と名づけられ、1958年3月に市場デビューを果たす。スバル360は、まず当時の有識者から注目を集める。第1号車のオーナーは松下幸之助氏。さらに、横綱の吉葉山関ら各界の著名人がオーナーリストに名を連ねた。もちろん、一般ユーザーの人気も非常に高く、デビュー年に早くも販売台数1000台を突破し、翌'59年には5870台にまで数字を伸ばす。その後も販売台数は上昇カーブを描き、1960年代初頭には日本を代表する国民車に位置づけられるようになった。

軽自動車販売台数トップの座を奪った「ホンダN360」

 スバル360が開拓した軽乗用車市場は、1960年代に入ると販売台数と車種ともに急速に増加していく。そのなかで、最後発でありながら一気に販売台数を伸ばした革新的なモデルが1967年3月に発売される。本田技研工業が開発した2BOX軽自動車の「ホンダN360」だ。

 N360の354cc直2OHCエンジンの最高出力は31ps。それまでのトップだったスズキ・フロンテの25ps、そしてダイハツ・フェローの23ps、三菱ミニカの21ps、スバル360とマツダ・キャロルの20psを圧倒した。さらに最高速度は115km/hに達し、高速走行でも小型乗用車と肩を並べるほどの高性能を誇る。その卓越した走りから“和製ミニクーパー”と称されたN360は、軽自動車販売トップの座をスバル360から奪い、結果的にわずか2年余りで約25万台の大量販売を記録するという偉業を成し遂げた。

 この状況に対し、ライバルメーカーも相次いで高性能軽乗用車を開発していく。富士重工業では最高出力36psを誇る「スバル360・ヤングSS」を1968年8月に発表(発売は11月)。一方の本田技研工業も、最高出力を36psにまでアップさせた「ホンダN360・Tシリーズ」をリリースした。
 その後も軽自動車のパワー競走は進み、スタイリングまでもスポーティに仕立てたスペシャルティ軽も設定されるようになる。市場での大人気を博した高性能軽乗用車。しかし、この勢いは長くは続かなかった。軽免許の廃止や軽自動車の車検制度の開始、さらに小さなボディによる衝突安全性の弱さなどが表面化すると、軽乗用車の売り上げは下降線を描き始める。また本田技研工業には、日本自動車ユーザーユニオンと称する団体が指摘したN360の欠陥問題によりイメージを大きく落とす結果となった。
 岐路を迎えた軽自動車カテゴリー。再び光明を見い出すのは、“軽ボンバン”ブームが巻き起こる1970年代末まで待たなければならなかった−−。