トヨタ・デザイン01 【1933〜1962】

海外デザインの模倣からオリジナル造形への努力

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米国流ストリームラインを手本に出発

 1933年9月に豊田自動織機製作所の取締役会で自動車事業進出が決定され、新たに自動車部を設置したことからスタートしたトヨタ自動車の本格的なクルマ造り。新事業を主導したのは、当時は常務取締役の任に就いていた豊田喜一郎だった。
 喜一郎は当初から乗用車の開発にこだわる。エンジンはシボレー、シャシーはフォードに範をとり、純正部品をそのまま使えるように設計。肝心のボディスタイルは、「頻繁な仕様変更を必要とせず、長く使えるデザイン」という主張から、当時の最先端の流線型デザインである1934年型デソート(クライスラー)・エアフローを参考にした。メインの曲面パネル類は大型の金型を使った本格的なプレス成型で製作(大量生産を前提としていた)。それらを溶接して外装に仕立てるのだが、パネルの端末処理は手作業での仕上げ、さらに板金および塗装工程ではパテ補修などの作業を必要とした。また、エアフローではヘッドライトがフロントセクションにビルトインされていたが、当時の豊田自動織機の技術では加工が難しく、最終的に一般的な外付けタイプに変更された。

 試行錯誤の結果、1935年5月には試作乗用車第1号の「トヨダA1型」が完成する。そして1936年9月には、東京府商工奨励館においてA1型の改良版であるオリジナル乗用車の「トヨダAA型」を披露した。ちなみにこの月、一般公募で集まったトヨダ車の図案マークが審査され、円の中に“トヨタ”のカタカナが描かれたロゴに決まる。これ以降、トヨダはトヨタに改称され、翌1937年10月に設立された新会社もトヨタ自動車工業を名乗った。

戦後、オリジナルの乗用車デザインに挑戦

 AA型の発表を皮切りに、そのフェートンボディ(幌型)であるAB型や中型乗用車のAE型“新日本号”などを生み出したトヨタ自工。その先陣を切っていた喜一郎は、第2次世界大戦の終戦直後から乗用車の復活を思い描き、工場の復興やトラックの生産を手がけるかたわら、乗用車の開発も徐々に推し進めていった。

 その成果は、1947年1月に完成した小型乗用車の試作モデルである「SA型」に結実する。SA型はそれまでの国産乗用車とは一線を画していた。シャシーは国産初のバックボーン式Y型フレームが基本。2ドアボディのスタイリングは流線型を用いた欧州テイスト(ヤーライスタイル)が感じられるデザインで、フロントには左右分割式の立派なメッキグリルを配する。トヨタ自工の渾身作であるSA型は、公募の中から選出した“トヨペット”のブランド名を冠し、1947年10月に市場デビューを果たした。

海外提携組とは一線を画す独自デザイン

 1950年6月に勃発した朝鮮戦争によって、“特需”が訪れた日本の産業界。この好況下で自動車メーカーは、念願の国産乗用車を開発する体制を整えていく。その戦略においては自社開発組と欧州メーカーとの技術提携組に大きく分かれ、前者の代表格がトヨタ自工だった。

 自社の技術力の向上によって乗用車造りを進化させようとしたトヨタ自工は、その集大成のひとつとして新しい上級乗用車を1955年1月に発表する。車名は“国産車をリードする王座のシンボル=王冠”から「クラウン」と命名した。外装に関しては、観音開きドアやCピラーまで回り込んだリアガラス、ボリューム感を持たせたエンジンフードに丸目2灯式のヘッドランプ、独特な造形のメッキ式フロントグリルなどを取り入れる。全体的には当時の高級車の象徴であるアメリカ車の影響が濃厚な造形であったが、技術提携組のノックダウン車と比べれば独自性が感じられるデザインだった。

 1962年9月になるとクラウンは全面改良が敢行されて2代目に移行する。スタイリングは従来型のフェンダータイプから大きく路線を変え、最新モードのフラットデザインを採用。1959年型フォード・ファルコンを端緒に始まったこの造形は、一体プレス成形を実施するのに最適のデザインだった。一方で開発陣は、各部でオリジナリティを主張する。クロームメッキ仕上げの“T”グリルに丸目4灯式ヘッドランプ、伸びやかなサイドメッキモール、ジュラルミン製リアガーニッシュに“涙目”リアランプなど、どの角度から見てもすぐに最新のクラウンであることが分かるようにアレンジした。

欧州志向のスピード感を演出した造形の創造

 上級乗用車のクラウンを進化させる一方、トヨタ自工は小型乗用車のカテゴリーにも力を入れた。
 打倒ダットサンを目指して開発された新しい小型乗用車は、「トヨペット・コロナ」(ST10型系)の車名で1957年5月に初披露される。コロナは先進のモノコックボディ構造を採用していたものの、丸みを帯びたフェンダータイプデザインやフラットに近いフロントガラスなどのアレンジはやや古臭く、全体的にはずんぐりとしていてスマートさに欠けていた。そのイメージから“だるま”と称された初代コロナは、発売直後こそ販売台数を伸ばすものの、その後は低調に推移した。

 コロナは1960年3月に全面改良が実施され、2代目となるPT20型系に移行する。2代目は欧州志向の斬新なデザインを導入。直線を基調としたボディラインに深く湾曲したフロントガラス、細いピラーと広いガラスエリア、傾斜したセンターピラー、前後に突出させたフェンダーなどにより、スピード感あふれるスタイリングを構築した。モダンな造形で好評を博す2代目だったが、一方でメインユーザーであるタクシー業界からは後輪カンチレバー式サスペンションが「耐久性がない」と不評を買い、いつしか“コロナは弱いクルマ”というレッテルが貼られてしまう。また発売までのスケジュールを急いだために、生産面でのトラブルも発生してしまった。以後、トヨタ自工はコロナの汚名を返上するための懸命の努力を続けていくこととなる。