ミニカ・アミ55 【1977,1978,1979,1980,1981】

軽新規格に則したFRミニ

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排出ガス規制が段階的に
厳しくなっていった1970年代中盤、
軽自動車の規格改定が行われる。
三菱自動車は中心車種のひとつである
ミニカをフルモデルチェンジ。
サブネームにアミ55を付けた。
新規格軽自動車への対応

 1976年1月から実施される軽四輪車の規格改定は、排出ガス規制に予算と人員を割かざるを得なかった軽自動車メーカーにとって大きな重石となった。新規格はボディサイズが従来の全長×全幅×全高3000×1300×2000mmから同3200×1400×2000mmに、エンジン排気量が360ccから550ccに拡大されることが決定していた。既存の軽自動車を改良するか、それともすべてを一新するか−−。多くのメーカーは結果的に前者を選択する。

 フルラインアップを目指し、米国クライスラー社とも共同事業を行っていた三菱自動車は、なおさら軽自動車に予算と人員を当てる余地はなかった。しかし、新規格には対応しなければならない。そこで首脳陣は、段階を踏んで新規格の軽自動車をリリースする決断を下す。まず1976年4月に既存の2G21型エンジンのボアを3mm、ストロークを11.4mm拡大した2G22型471ccユニットを積むミニカ5を発売する。

ボディは基本的に従来のミニカF4を流用し、そこに大型の前後バンパーを装着した。意匠変更として、メッシュタイプのグリルも組み込む。ミニカ5は他メーカーに先駆けた新規格車だったため、予想以上に注目を浴びた。

室内で拡大したのは幅だけ!?

 ミニカ5のデビューから1年2カ月後の1977年6月、いよいよ本命の新規格車が登場する。搭載エンジンは2G23型546cc。ボディ幅も1395mmにまで拡大した。車名はミニカ・アミ55。アミはフランス語で友達、55は排気量を意味していた。

 真っさらな新型車に思えたアミ55だったが、実はメカニズム関連はF4時代と大差はなかった。ホイールベースは2000mmのままで、前後サスペンションの基本構造も共通。他メーカーがパッケージングで有利なフロントエンジン&フロントドライブに移行するなか、アミ55はフロントエンジン&リアドライブのままだった。室内幅は広がって、内外装の意匠も変わったけど、基本はF4のまま……。次第にアミ55は“古臭い軽自動車”という評価が定着していった。

 この悪評を払拭するために、開発陣は少ない予算に苦心しながらマイナーチェンジを実施していく。1978年9月にはMCA-JETを組み込んだG23B型エンジンを搭載し、昭和53年排出ガス規制をクリア。さらにカムの駆動をタイミングチェーン式からベルト式に変更し、信頼性と静粛性を向上させる。1980年代に入ってからはオシャレな内外装パーツを備えた女性向け仕様、サンルーフ装着車、限定の廉価バージョンなども設定した。しかし、ライバルとの差は一向に埋まらず、結果的に1981年8月には大規模なリファインを実施してアミ55からアミL/エコノに移行することになった。

走りの印象は――

 販売面では苦戦したミニカ・アミ55。しかし、一部のユーザーからは絶大なる支持を集めた。その要因は走りのよさだ。

 FRの駆動方式がもたらすハンドリングは非常にスムーズで、小回りもよくきいた。シフトフィールは節度感があり、他社のFF車のような曖昧さはない。シートの出来も、当時の軽自動車の中では優れた部類だった。

 このスポーティな性格はアミL/エコノにも引き継がれ、1983年2月には軽自動車初のターボ搭載モデルとして結実する。アミ55は販売成績で見ると決して成功作とはいえないが、歴代ミニカのなかでは無類にマニア度が高く、運動性能も優れたモデルだったのである。

COLUMN
軽自動車が新規格に 移行した真の理由とは−−
 軽四輪車は1976年1月に規格改定されるが、その背景にはさまざまな理由があった。最も大きな要因は“交通戦争”だ。1960年代末から1970年代初頭にかけて自家用車保有台数が飛躍的に伸びた結果、交通事故の件数が大幅に増加し、大きな社会問題となる。とくにボディが小さい軽自動車の乗員の死亡率が高く、運輸省もその対策に本腰を入れる。そしてボディを大型化する規格改定の決断を下した。その際、エンジン排気量が360ccのままでは加速が鈍くなり、交通渋滞を招く危険性が生じる。高回転を維持せざるを得ないために燃費も悪化してしまう(同時期に燃費公表制度がスタート)。そこでエンジン排気量を550ccに拡大したのである。