アコード・エアロデッキ 【1985,1986,1987,1988,1989】

斬新造形の上級ハッチバックモデル

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本田技研の中心車種であるアコードは、
1985年6月に3代目に移行する。
ボディタイプは従来型と同様に
セダンとハッチバックを用意したが、
ハッチバック仕様には
「エアロデッキ」というサブネームが
新たにつけられていた。
意欲的なアコードのモデルチェンジ

 1980年代中盤の本田技研は、日本市場はもとよりアメリカ市場でも大きくシェアを伸ばしていた。その原動力は米国オハイオ工場で生産、さらに日本の狭山工場からも輸出された2代目アコード・シリーズで、1984年までにはアメリカにおける海外ブランド車のトップセールスを記録する。安価で壊れず、しかもスポーティ&スタイリッシュ、アコードに対する北米市場の評価は、非常に高いものだった。

 本田技研はこの勢いをさらに増すための戦略を打ち出す。2代目のデビューから3年9カ月という早いサイクルで、アコードのフルモデルチェンジを実施する決断を下したのだ。

 3代目となる新型に課せられたテーマは、「ホンダ車らしく、しかも国際戦略車にふさわしい内外装と走りの実現」にあった。エクステリアはスポーティさやアメリカ市場の好みなどを重視して、リトラクタブルライトを採用したロー&ワイドのフォルムを構築。インテリアは広がり感と上質なイメージを持たせたアレンジで仕上げる。メカニズム面ではFF車としては世界初となる4輪ダブルウイッシュボーン式サスペンション、新開発の1.8/2L・DOHCエンジン、車速感応型パワーステなどの新機構を積極的に組み込んだ。

新しいハッチバック・デザインの追及

 1985年6月、3代目アコードがついにそのベールを脱ぐ。新型のラインアップを見て、自動車マスコミ界が最も注目したのはハッチバックモデルだった。車名は「アコード・エアロデッキ」。ロングルーフのビュレットフォルム(弾丸形状)は非常に斬新で、しかも空力性能(Cd×A)は0.64の好数値を達成していた。肝心のリアハッチはルーフ部にまで回り込み、後方のスペースが少ない場所でも開閉が可能。リアシートの居住性がセダンと遜色なく、しかも既存のハッチバック車より優れていたことも大きなアピールポイントだった。

 エアロデッキの販売はセダンより1カ月遅れの1985年7月から始まった。新種のハッチバックはユーザーの注目を集め、販売開始当初は好調なセールスを記録する。走りに対する評価も高く、とくに4輪ダブルウィッシュボーンサスによるロードホールディング性能の高さとB20A型2L・DOHC16Vエンジンの高性能が話題を呼んだ。

 好成績が続くかに見えたエアロデッキだったが、しばらくすると販売台数は伸び悩みはじめる。斬新すぎるフォルムがアコード・クラスのユーザーに受け入れられなかった、リアドアが未設定だったためにファミリー層にとっては使い勝手が悪かった、ハッチバック=安物グルマという日本人のイメージを払拭しきれなかった……要因は色々と考えられた。

 それでも開発陣は、新世代ハッチバックという意欲作に愛着を持ち、様々な改良を加えながら魅力度を高めていく。86年5月には新しいATを搭載。1987年6月にはバンパーやレンズ類を変更して新鮮味を加える。1988年9月にはATに安全機構を装備するなど、セーフティ面を強化した。しかしこれらの改良も、残念ながら販売成績の伸びにはつながらなかった。

ヨーロッパ市場で人気モデルに――

 アコードは1989年9月にフルモデルチェンジし、4代目に移行する。その車種ラインアップに、エアロデッキの名はなかった。つまり、一代限りで消滅してしまったのだ。

 ただし、これは日本だけの話。エアロデッキは欧州市場でも販売(北米市場ではファストバックの3ドアハッチバック車を販売)したが、その人気は日本よりも遥かに高かった。やがてホンダのハッチバック車=エアロデッキという図式が浸透していく。

そのため、4代目アコードで登場したワゴンモデル、さらにシビックのワゴンモデルには欧州で販売する際にエアロデッキのサブネームが付けられた。開発陣のエアロデッキに対するこだわりは、結果的にヨーロッパで花開いたのである。

COLUMN
新しいクルマの形を模索した1980年代中盤の本田技研
 既存のシャシーを使って、今までにない新しいクルマの形を創出する−−。1980年代中盤の本田技研は、そんな意欲的なクルマ作りに奔走していた。まず1983年7月にFFライトウエイトスポーティカーのバラードスポーツCR-Xを発売。同年9月には多目的5ドアワゴンのシビック・シャトルを発表する。1984年4月にはルーフ高を上げたシティRハイルーフを、同年6月には4シーターオープンのシティ・カブリオレをリリースした。そして1985年6月、今回ピックアップした新世代ハッチバックのアコード・エアロデッキがデビューするのである。どのクルマもそれまでの日本にはなかったジャンル&スタイルで、本田技研の勢いを具現化していた。