クイント・インテグラ 【1985,1986,1987,1988,1989】

インテグラの名を加えた2代目クイント

会員登録(無料)でより詳しい情報を
ご覧いただけます →コチラ


1980年代は本田技研工業から
スポーツスピリットあふれるモデルが
数多くリリースされた時代だった。
四輪進出時の原点回帰、F1イメージの踏襲──
自動車マスコミは様々な賛辞をおくる。
そんな最中、クイントが2代目に移行した。
日米共同で進められたデザイン

 1982年はホンダにとって記念すべき年となった。アメリカのオハイオ州に建設していた乗用車工場がついに稼動したのだ。米国でのホンダ車の人気はいっそう高まり、1983年度の連結ベースの純利益はついに日産自動車を上回ることとなる。その流れはクルマの開発体制にも影響を及ぼし、やがて首脳陣は海外ユーザーの嗜好を踏まえた新型車の開発を進める決断を下した。

 1985年2月、シビックとアコードの間を埋めるファミリーカーのクイントがフルモデルチェンジを遂げる。車名はサブネームにインテグラを付けてクイント・インテグラと名乗った。このモデルはアメリカの上級ディーラーであるアキュラ(ACURA)ブランドからも販売する予定だったため、デザインの企画は日米共同で進められる。最も大きな特徴はフロントマスクで、スポーティなリトラクタブルライトにホンダの頭文字である“H”マークを中央にあしらっていた。

この顔は1982年11月にデビューした2代目プレリュード、そしてインテグラ登場の約3ヵ月後に日本デビューを果たす3代目アコードにも採用される。1980年代前半は「日本車はメーカーごとの顔がない」といわれていた時代。その打開策としてホンダの開発陣が企画したのが、リトラクタブルライト&Hマークだったのだ。

インテグラ=統合の意味は──

 クイント・インテグラは、最初に3ドアハッチバックがデビューする。ハッチバックとはいってもリアの処理はクーペのように流麗で、初代クイントのファミリーカー的なスタイルとは一線を画していた。当時の開発スタッフによると、「スペシャルティカーが好きなアメリカ人の嗜好を重視した結果で生まれたデザイン」だったという。

 メカニズムはインテグラの車名の通り、当時のホンダの技術を結集=インテグレーテッドしたものだった。エンジンは全車にZC型1.6L・DOHCを搭載し、上級グレードにはPGM-FIを名乗る最新の電子制御式燃料噴射装置を装着する。フロアパンは新設計で、そこにワンダー・シビックで好評だった足回りをチューニングし直して組み込んだ。

国内外で人気モデルに昇華

 こうして出来上がったクイント・インテグラは、走りの面でも高い評価を得た。シビックよりも落ち着いた挙動で、プレリュードと比べると軽快に走る。しかもZC型エンジン+PGM-FIの動力源が爽快な加速を味わわせてくれた。

 この評判に呼応するように、クイント・インテグラは車種バリエーションを増やしていく。85年10月にはロックアップ付き4速ATを追加。その1カ月後には実用性の高い5ドアハッチバックがラインアップに加わる。86年10月には4ドアセダンがデビューし、同時に1.5L仕様の廉価版も設定された。「最初はアメリカで人気のある3ドアのクーペスタイルを、その後で日本や欧州市場に向けた実用ボディを設定した」と、当時の開発スタッフはその戦略を振り返る。

 結果的にクイント・インテグラは世界の市場で受け入れられ、人気モデルとして昇華していった。そして開発陣にとっては、「ホンダ車はスポーティなイメージを内包すべき」という事実を再認識させる一台となった。その路線は1980年代後半から1990年代初頭にかけて、さらに進化していくことになる。

COLUMN
F1の技術が生かされた新世代燃料供給装置
現在では2輪のスクーターにまで採用されているホンダ自慢の電子制御燃料噴射装置のPGM-FI(ProGraMmed Fuel Injection) 。フォーミュラ1の技術をフィードバックした先進システムとして初めて市販モデルに搭載されたのは、1982年9月にデビューしたシティ・ターボだった。その後に拡大展開され、最終的にはフラッグシップのレジェンドから軽自動車のトゥデイにまで組み込まれるようになる。走行状況に応じた最適な空燃比を瞬時に算出し、最適量の燃料を噴射するPGM-FIは、VTECを採用する際のバックボーンともなった。