フロンテ 【1973,1974,1975,1976,1977,1978,1979】

2ストロークエンジンへの執念

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カローラやサニーなどのマイカーが
一般に普及し始めた1970年代の初頭、
ボトムラインを支える軽自動車にも
より快適性が求められるようになる。
そんな状況のなかで鈴木自工は、
主力車種のフロンテを新型に切り替えた。
新世代軽自動車の追求

 1966年にデビューしたカローラやサニーは、日本の自動車マーケットを大きく変えた。いわゆる「マイカー」ブームが起こり、国民の足は次第に小型自動車へと移行していく。

 そんな状況のなか、従来は国民車の中心だった軽自動車にも変化の波が襲ってきた。より見栄えがよくて快適性に優れ、しかもパワーのあるモデルがユーザーから求められるようになったのである。軽自動車の販売を屋台骨としている鈴木自工(現スズキ)にとって、この指向は大きな課題となった。同時に、年々厳しくなる排出ガス規制にも対応していかなければならない。見栄えのいい内外装と優れた動力性能を持ち、しかもクリーンな軽自動車に仕立てる−−。その試金石として、開発陣は1973年7月に主力車種のフロンテをフルモデルチェンジした。

 実質的に4代目となる新型は、「スティングレイ・ルック」と呼ばれた従来のスクエア基調から一新して、全体的に丸みを帯びたオーバルシェルを採用する。このフォルムは、ヒット作となった2代目モデルのイメージに回帰したものだった。ボディタイプは2ドアのほかに利便性に優れた4ドアセダンを設定し、ファミリーユーザー層にアピールする。開閉が可能なリアウィンドウやガラスハッチを備えたリアゲートも新型のアピールポイントだった。

 メカニズム関連は基本的に従来モデルからのキャリーオーバーだ。エンジンは水冷の2ストローク3気筒で、2/4ドアセダンが34ps、ツーリスモ・シリーズが37psの最高出力を発生する。昭和48年排出ガス規制に対応するために、HCを減らすエバポ装置も組み込んでいた。

新規格に合わせたマーナーチェンジ

 1976年6月には軽自動車の新規格に合わせてボディを大型化し、同時に内外装の意匠も変更。車名もフロンテ7-Sに変わった。エンジンは規格一杯の550ccではなく443cc(T4A型)の2ストローク3気筒を採用し、昭和50年排出ガス規制をクリアする。

 ちなみにこの当時、2ストロークの存在を疑問視する声がそこかしこで発せられるようになる。鈴木自工以外のメーカーは2ストロークで排出ガス規制に対応するのをあきらめ、4ストロークに一本化する方針を打ち出していた。一方、鈴木自工は2ストロークの利点、使用パーツが少なくて軽量に仕上がり、メンテナンスが簡単で故障も少なく、同排気量なら4ストロークよりもパワーが出せるメリットを重視し、排出ガス規制に対しては「何としても克服する」という気概を見せたのである。7-Sのデビュー時には「どっこい生きている」という辛辣なキャッチフレーズの下、2ストロークエンジン搭載車であることを声高に主張していた。

2ストロークエンジンへのこだわり

 最も厳しいとされる昭和53年規制を目の前にした1977年5月、鈴木自工は「絶対に無理」といわれた2ストロークエンジンでこの規制をクリアする。排気量も規格に合わせた539cc(T5A型)にまでアップされた。

 T5A型搭載車のデビューと同時期、鈴木自工は4ストロークエンジンを搭載したフロンテ7-Sもラインアップに加える。このエンジンの型式はAB10。そう、フェローMAXにも積まれたダイハツ製の547cc・直2OHCユニットだ。鈴木自工は2ストロークでの排出ガス対策の保険の意味で、ダイハツから月1000台の枠内でエンジン供給を受ける契約を結んでいた。

結果的にフロンテ7-Sは、2ストローク版と4ストローク版を併売するというユニークな形をとる。この車種展開は、自社開発の4ストロークエンジン(F5A型)を積んだ次世代フロンテ(79年5月デビュー)にも引き継がれていった。

COLUMN
2ストロークエンジンでの排出ガス対策技術は−−
 2ストロークエンジンはその特性上、どうしてもHC(炭化水素)の排出量が多くなってしまう。この状況に対して鈴木自工のエンジニアは、2段式の酸化触媒コンバータ機構を新開発した。触媒自体には吹き抜けのいいモノシリックタイプを採用する。さらに触媒が過熱しないように、大容量のエアポンプを使って十二分に2次空気を触媒床に送り込むシステムを作り出した。2段式の触媒と大容量の2次空気の供給−−この2つの新機構を骨子として、最も厳しいとされた昭和53年排出ガス規制を2ストロークエンジンで唯一クリアしたのだ。