プレーリー 【1988,1989,1990,1991,1992,1993,1994,1995,1996,1997,1998】

機能性を高めた2代目マルチパーパスビークル

会員登録(無料)でより詳しい情報を
ご覧いただけます →コチラ


ライバル群の追い上げ

 1982年8月にデビューしたM10型の初代プレーリーは、日本市場にマルチパーパスビークル、現代に続く乗用車ベースのミニバンというカテゴリーを創出した画期的なクルマだった。1980年代初頭から本格化し始めたアウトドアブームを背景に、同車は着実に固定ファンを獲得していく。
 新カテゴリーに、競合メーカーが触手を伸ばさないはずがない。三菱自動車は83年2月にDO型シャリオを、本田技研は83年10月にシビック・シャトルをリリースし、マルチパーパス市場は俄かに活況を呈した。

 ライバル車の追撃が激しいなか、日産はプレーリーの次期モデルを企画していく。そして、「高いスペースユーティリティと乗用車感覚の融合」という従来モデルのコンセプトを堅持しながら、5ナンバーサイズながら多人数が快適に乗車できる、いわゆるミニバン指向を強くし、従来モデルの“ハイトワゴン”とは性格を異にする方針を打ち出した。M10型では5名乗りのワゴンよりも7/8人乗りのサードシート付きモデルのほうが人気が高く、そのため開発陣は「次期型はサードシート付きに注力したほうが得策」と考えたのである。
 結果的に次期型プレーリーの室内空間は、サードシート装着を前提に開発が進められる。ベースシャシーは室内空間の拡大に対処するために、ブルーバードから流用する決断を下した(M10型はサニーから流用)。さらに乗用車感覚というコンセプトも重視され、スタイリッシュな外観と走行性能の向上を目指した。

2代目は車種ラインアップを明確化

 2代目プレーリーは、意外な場所でワールドプレミアを果たす。1988年9月中旬に開催されたパリ・サロンの舞台だ。当時の日産はトヨタとの販売台数の差を縮めるために輸出政策を重視しており、プレーリーはその一環の国際戦略車に位置づけられていた。新型はまず注目の欧州で披露し世界市場での認知度を高めていく戦略をとった。
 パリ・サロンでの発表から数日ほど遅れて、日本でも2代目プレーリー(M11型)が正式にデビューする。スタイリングは従来型のボクシーなデザインからワンモーションフォルムに一新された。ただし、M10型の大きな特徴だったセンターピラーレスのボディ構造は、安全性や耐久性の向上という理由から新型では採用されなかった。使い勝手に優れたスライドドアはそのまま継承されている。

 グレード展開は上級仕様のJ系とベーシック仕様のM系という2つの構成でアレンジする。シート配列は当初の予定通り3列式がメインで、2/2/2名の6人乗り、2/3/2名の7人乗り、3/3/2名の8人乗りという3タイプをラインアップした。サードシート未装備の5人乗りも設定したが、ベーシックなMグレードだけに留められる。またグレード名は、装備仕様を示すJ/Mの後に乗車定員を表す数字を付けるというシンプルなネーミングにした。
 メカニズム面ではエンジンをCA20S型2L・OHCの1機種に絞ったことが特徴で、組み合わせるミッションは5速MTと4速ATを用意する。駆動方式はFFのほかに、ブルーバードと同システムのアテーサ(4WD)を組み込んだ。

異例のロングライフモデルに成長

 ミニバン指向に変身したM11型は、とくにファミリーユーザーから高い支持を獲得し、安定した販売成績を記録していく。1990年9月のマイナーチェンジ時には「モアパワー」の声に対応して、2.4L・OHCエンジン(KA24E型)を積む240G系を設定した。
 国産車の通常のサイクルでいけば、プレーリーは1990年代半ばにはフルモデルチェンジが行われるはずだが、実際は1998年末まで2代目の販売が続けられる。95年8月に内外装の大変更やエンジンの換装(CA20S型→SR20DE型)を実施するビッグマイナーチェンジが行われ、車名も「プレーリー・ジョイ」に改称したものの、型式はM11型のままだった。
 この背景には、当時の日産のお家事情が影響していた。バブル景気の崩壊によって経営状況が悪化し、新型車の開発資金が削られていたのだ。当然、中核車種ではないプレーリーの開発予算は少なく、フルモデルチェンジはままならなかったのである。