日野ルノー 【1953,1954,1955,1956,1957,1958,1959,1960,1961,1962,1963】

フランス生まれのお洒落な傑作

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ルノー4CVを選んだ日野の見識

 第二次世界大戦最中の1924年にディーゼル・エンジンのメーカーであったヂーゼル自動車工業から独立した日野ヂーゼル工業(現在の日野自動車の前身)は、旧日本軍のために戦車や軍用大型車両の生産で知られていたが、敗戦と共にバスやトラックの生産を開始していた。やがて、小型乗用車の生産解禁にともない小型乗用車の分野への進出を企画した。小型乗用車の生産に関する技術を持っていなかった日野自動車では、外国メーカーとの技術提携の道を選択し、フランスのルノー公団と技術提携を結ぶ。生産車として選ばれたのは、小型車ルノー4CVであった。

 ルノー4CVは、フランス本国では1947年に発表された4人乗り4ドアの全長3630mm、ホイールベース2100mmの小型車で、デビュー当時は排気量746ccの水冷直列4気筒OHVエンジンを後部に搭載して後輪を駆動していた。ドイツのフォルクスワーゲン(VWビートル)と並んで、第二次世界大戦後に現れた小型車の傑作であった。この4CVの駆動方式などに関して、当時フランスに戦犯として拘束されていたフェルディナンド・ポルシェ博士に参考意見を求めたという噂が流れたものである。それほど画期的な小型車だったのだ。日野自動車がルノー公団と技術提携を締結した1953年は、フランス本国では4CVがデビューして数年を経ていたが、日本にも最適な小型4ドアセダンだったこともあり、当然日野自動車でも4CVをノックダウン生産することとなった。ボディサイズや小型車としての性能などが、復興最中にある日本の社会にもうまくフィットしていたのは事実であった。

契約1ヶ月後に1号車が完成!

 ノックダウン生産でR-1062型として量産開始された日野ルノーは、1953年3月15日に第1号車が完成、以後急速に生産台数を増やして行く。1954年型(PA55型)からはフロントのクロームメッキの飾りがフランス本国での変更に伴って3本となり(それまでは6本)、車幅灯は四角形となった。また、室内の狭さを和らげるために、リアシートのバックレストの角度を倒して室内スペースを拡大している。この後も、基本的にはフランス本国仕様と変わりはないものの、細部は日本の使用状況に合わせて順次改良が加えられた。しかし、真に自家用車として使われた台数はごく少数であり、大半はタクシー用車として使われていた。日本のクルマ社会は未だオーナードライバーには縁遠い状況にあったのである。日野ルノーがその高性能振りを発揮し、「神風タクシー」の異名を授けられるのに多くの日数は必要としなかった。当時の国産車のレベルと比較して、リアエンジン・リアドライブ方式、フルモノコックボディ、4輪独立懸架、ラック&ピニオン式ステアリングなど、どれを採っても先進的な技術に溢れるものだった。

日本仕様は独特のロングテール!?

 日野ルノーとしての最も大きな変更点は、1954年1月に発売されたPA55型のもので、前後バンパーとボディの間にプレス鋼板のスペーサーを加え、全長を235mm延長して3845mmとしたことだ。フランス本国そのままの仕様にすると、全長の短いことにより日本の法律上小型車の最高速度規制で最高速度が10km/h遅くなることを嫌ったためであった。それは、主にタクシードライバーからの要求に基づくものだったのだが、本来オーナードライバー向けに設計されたルノー4CVを、劣悪な道路環境の日本で、営業車として使うことには大きな無理があったようだ。長距離にわたる酷使を想定していないサスペンションを中心としてトラブルを頻発することになる。やがて「ルノーの足は弱い」という風評が広まって、メーカーは足回りやボディの強化に対処しなければならなくなった。

 1957年のPA58型からはノックダウン生産ではなく、エンジンやトランスミッション、ボディ・パネルまでを含めた完全な国産化を成し遂げ、名実共に国産車日野ルノーとなった。足回りも日本の道路事情に合わせて強化され、トラブルは解決したのだが、「ルノーは弱い」という風評はその後も付きまとう結果となった。販売価格は1960年のスタンダード仕様では62万5千円となっていたが、当面のライバルであった日産ダットサン・ブルーバード(310系)の68万5千円に比べれば6万円ほど安価であった。日野ルノーの大きな人気の理由である。

人気に支えられ1963年まで生産

 1956年10月に発表されたPA57型では、今までフロント・エンドに付けられていた太目のクロームメッキされた3本の横バーが左右で結ばれた形となり、エンジンのスターター・スイッチがイグニッションキーと一体化されるなどの実質的な改良が加えられた。これ以降も、数多くの改良が加えられたが、1963年8月の生産中止まで、基本的なスタイルに変更は無かった。ルノー公団との技術提携契約は7年間とされていたが、後にもう2年間延長されたと言う。日野ルノーは、その発展型であり、日野自動車の独自開発による日野コンテッサ900が登場した後も2年間ほどは並行生産されていた。日野ルノーの根強い人気を示している。ちなみにフランス本国では日野ルノーが生産を完了した1963年8月の約2年前の1961年9月に生産を終了、その生産台数は110万5547台に達した。