特殊車両の歴史02 【1961,1962,1963,1964,1965,1966,1967,1968,1969,1970,1971,1972,1973,1974,1975,1976,1977,1978,1979】

外国企業との競合と技術進化

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「世界の巨人」の日本進出

 1950年代の小松製作所(現・コマツ)は、ブルドーザーを主軸とする建設機械、そしてフォークリフトやショベルローダーといった産業車両の開発・生産で順調に成長を続ける。1959年には総資産185億円、従業員数7300人を誇る業界トップメーカーの地位に君臨していた。

 このままの勢いを維持し続けるかに見えた同社、しかし1961年春に衝撃のニュースが新聞紙面を躍る。「米国の建機メーカーのキャタピラー・トラクター社が日本への進出に動き出した」のだ。

 キャタピラー社は当時世界最大の建機メーカーで、本国はもちろん、欧州やアフリカにも子会社や関連会社を多数持つ国際的な大企業だった。しかも、ブルドーザーの売上高は世界市場の50%以上という圧倒的なシェアを誇る。建機業界では「世界の巨人」と呼ばれていた。

 1960年代初頭といえば日本の政府が貿易為替の自由化を急ぐ方針を打ち出し、それに伴う資本の自由化も問題にされた時代である。諸外国からの門戸開放の圧力、いわゆる“外圧”も強くなり始めていた。こうした背景もあって、キャタピラー社は日本への進出を画策したのである。

 1962年6月、キャタピラー社は新三菱重工との合弁で日本にブルドーザー製造会社を設立することを正式に発表する。経済マスコミ界からは、「アメリカのブルドーザーの品質は日本のものより数段進んでいる。日本の建機メーカーの多くは3年で沈没するのではないか……」の声が出た。

徹底した品質改善を決定!!

 この状況に対し、小松製作所の首脳陣は「もはや迎え撃つしかない」という決断を下す。そして、“マルA対策”というプランを設定し、それを実現させるための専用の部署を設けた。

 マルA対策とはブルドーザーの品質向上を徹底的に、しかも短期間で達成することを主眼とするプランだ。そのための品質管理活動(QC)は業務の最優先とされた。すぐにマルA対策は具体化され、1:最初のオーバーホールまでの実働時間をキャタピラー社と同じ5000時間にする。2:機能率(運転時間÷〈運転時間+整備時間+故障休止時間〉×100)=90%。3:修理費は本体価格の1.3倍以内。4:機械寿命1万時間㈭機械の操作および整備の容易化、といった厳しい内容が掲げられる。

 マルA対策を実施した量産試作車は1963年3月に完成する。そして同年9月、「スーパー車」と名づけて発売された。同車の完成度は非常に高く、ユーザーからのクレームも従来型より大幅に減少する。

 その後も小松は第2次マルA対策を実施して米国カミンズ社製エンジンを搭載する「スーパーC車」を1964年7月に発売するなど、さまざまなQCを実施していく。1964年秋には品質管理の功績が認めれて、米国の「テミング賞」を受賞した。そして1965年4月にキャタピラー社の第1号車が日本で登場する頃には、小松製ブルドーザーは互角に戦える高性能と品質を見事に確保していたのである。

海外市場への展開

 世界最強のブルドーザー・メーカーと競い合い、自社製品の完成度を大きく向上させた小松は、今度は海外への進出に意欲を燃やすようになる。1966年8月には海外進出のためのWA対策推進本部を設置し、翌1967年7月にはアメリカ市場へのブルドーザーの輸出をスタートした。

 品質が高く、しかも比較的安価だった小松製ブルドーザーは、徐々に北米での販売台数を伸ばしていく。1969年秋にはサンフランシスコに駐在所を設置し、翌1970年2月には現地法人の「小松アメリカ」を設立した。
 この頃になると小松製品の評判は業界内で非常に高くなり、その結果輸出台数は大きく伸びていく。それに呼応して、小松は現地法人を相次いで設け、「小松ヨーロッパ」、「小松ブラジル」、「小松シンガポール」などが設立された。

 海外への進出は小松の製品造りにも変化をもたらし、さらなる信頼性の向上と技術革新が必要だという考えが浸透し始める。1972年には市場データを収集し、製品造りに生かして信頼性を向上させるマルB活動を展開。さらにホイールローダのマルC活動、油圧ショベルのマルD調査、ダンプトラック対象のマルQ活動などが実施された。

主力製品が油圧シャベルへ

 順調に発展を続ける小松製作所だったが、1973年に入ると第1次オイルショックの影響で業績は大きく落ち込む。しかし、幸運にも東南アジアなど海外への輸出が好調を維持したため、経済混乱は何とか乗り切ることができた。

 オイルショックとほぼ同時期、建機業界にはひとつの変化の波が訪れていた。油圧ショベル需要の急速な伸びである。ブルドーザーに比べてメンテナンス性に優れる油圧ショベルはコスト削減に大きく寄与するため、不況下での現場では非常に重宝されたのだ。

 小松では1968年10月から油圧ショベルの生産を開始していたが、社会状況の変化に対応するために油圧ショベルの開発と量産に力を入れるようになる。さらに、油圧シャベルの特性を考慮した流通機構の合理化とサービス体制の拡充も図った。その結果、1977年には油圧ショベルの業界シェアが1位となり、その3年後にはブルドーザーの売上を抜くという状況になる。この時点で油圧ショベルは、小松の主力製品に成長していたのだった。