三菱デザイン01 【1917〜1962】
欧米製乗用車の模倣からオリジナル造形への発展
大正6年(1917年)、三菱造船株式会社の神戸造船所において4輪乗用車の試作が始まる。後の三菱自動車製乗用車の源流となる「三菱A型」が生み出されようとしていたのだ。
三菱A型はイタリアのフィアットZERO(同社最初の大量生産車)および3-3A型を参考にしながら、シャシーとボディが造られる。木骨のボディについては樫を加工したうえで漆塗りで製作され、箱型と幌型の2タイプを設定。乗車人数は7名とした。ゆるやかな弧を描くフロントフード下に収まったエンジンは2765cc直4SVで、35psの最高出力を発生する。駆動レイアウトにはFRを採用した。すべてが手作りながら、量産を前提とした三菱A型は、1918年末になってついに完成品が出来上がる。
1920年には三菱内燃機製造が設立され、生産はここに移管された。国産初の量産乗用車という野心作となった三菱A型だったが、販売は不振をきわめる。また三菱としても、あくまで長期取組み計画のひとつという位置づけでそれほど販売に力を入れなかった。そのうちに三菱内燃機において航空機製造が重視されるようになり、結果的に三菱A型は1921年に製造を中止。総生産台数は試作を合わせて22台にとどまった。
三菱A型の製造中止から14年ほどが経過した1935年、時の陸軍自動車学校から「野戦指揮官用全輪起動乗用車」の内示が下る。これに合わせて三菱重工業(三菱内燃機製造→三菱航空機と三菱造船が合併)は、国産初の四輪駆動乗用車となる「ふそうPX33型」を1936年に試作した。車両デザインはフェンダータイプのボディを基本に幌のトップを装備。乗車人数は7名で、70psの最高出力を発生するディーゼルエンジンを積み込んだ。なかなかの秀作といえるPX33型だったが、結局制式化には至らず、1937年に4台が製作された後にひっそりと姿を消した。
三菱重工業は物資の乏しい戦後になると、まずスクーターの製造に乗り出す。米国のサルスベリー社のスクーターを参考に、同社の名古屋機器製作所で造られた「シルバーピジョン」だ。1946年から販売された同車は、富士重工業のラビットとともに庶民の足として大活躍する。1950年に三菱重工業が解体され、東日本重工業/中日本重工業/西日本重工業に分かれた後も、シルバーピジョンの改良は中日本の手によって続けられた。
シルバーピジョンのヒットや3輪トラックのみずしま(1946年デビュー)で自動車事業を拡大していった旧・三菱重工業は、1950年代に入ると乗用車製造への本格進出を画策するようになる。その手段として選んだ方策が、海外メーカーとの提携によるノックダウン生産だった。東日本重工業は1950年に米国のカイザー・フレイザー社と提携し、翌1951年から「ヘンリーJ」と呼ぶ高級車の製造を開始する。エンジンはウィリス社製の2199cc4気筒と2638cc6気筒を搭載した。また、中日本重工業はウィリス社とジープのノックダウン生産に関する提携を結び、1952年から「ジープCJ3A」を製造した。
ヘンリーJのノックダウン生産で乗用車造りを経験してきた三菱は、1960年になるといよいよオリジナル企画の小型乗用車の発売にこぎつける。通産省の国民車構想に呼応し、新三菱重工業の名古屋製作所が開発を手掛けた「三菱500」だ 。
三菱500は、当時の欧州製スモールカーに範をとった小型乗用車に仕立てられる。ボディは2ドア4座のモノコック構造で、シャシーには前後トレーリングアーム/コイルの四輪独立懸架方式を採用。風洞実験を駆使したスタイリングは虚飾をすべて廃し、シンプルな外観に仕上げた。リアに積み込まれたエンジンは、4サイクルのNE19型493cc空冷2気筒OHV。21ps/3.4kg・mのパワー&トルクを発生し、最高速度は90km/hに達した。Uジョイントを2つ使ったリアシャフトや変形版のデュポネ式を採用したフロントサスなど、随所に新三菱重工業らしいエンジニアリング優先の設計を施した三菱500は、まず第6回全日本自動車ショーに参考出品され、観客の熱い視線を集める。市販に移されたのは1960年4月。車両価格の39万円は、軽自動車以外で初めて40万円を切る低設定だった。
1962年7月になると、三菱500の実質的な後継モデルとなる「コルト600」が市場デビューを果たす。外装はモダンなスタイリングに一新され、見栄えが一気にアップ。さらに、ノーズを伸ばして広いトランクルームを設けた。エンジンは改良版のNE35B型594cc(25ps)を搭載する。
コルト600のリリースから3カ月ほどが経過した1962年10月、三菱初の軽四輪乗用車となる「ミニカ」(LA20)が発売される。先に登場したバンボディの三菱360をベースに、垂直形状に近いリアピラーや独立したトランクルームを設定。FRの駆動レイアウトを活かし、クラス最大級のトランク容量を確保した。エンジンはME21型2サイクル・359cc空冷2気筒(17ps)を積み込み、俊敏な加速性能を実現する。
独自企画の乗用車を積極的にリリースした1960年代初頭の新三菱重工業。その開発姿勢は、1960年代後半になるとさらに勢いを増していくこととなった。