日産プレジデントvsトヨタ・センチュリー 【1965〜1996】
威厳を競った2台の最高級プレステージカー
行政府が主導する所得倍増計画が推進され、“高度経済成長”と呼ばれる好況に発展した1960年代前半の日本。国内の自動車メーカーの技術力や生産能力も飛躍的に高まり、純国産の新型車が相次いで市場デビューを果たしていた。
そんな状況の中、官公庁や大企業などからこんな意見が寄せられる。「工業立国を目指す日本において、政治家や要人、社長などを送迎する純国産の新しいフルサイズカーが必要ではないか」。1960年代初頭までの国産車はまだまだ信頼性が低く、まして要人を乗せるショーファードリブンカー(お抱え運転手付きの高級乗用車)の開発は難題であった。自動車メーカー側は既存車種の拡大版を開発するのが精一杯で、日産自動車がセドリック・スペシャル、トヨタ自動車工業がクラウン・エイトなどでこのクラスの需要に細々と対応していた。信頼のおけるフルサイズカーは、欧米車しかない−−この状況を打破すべく、最初に立ち上がったのは、日本の自動車メーカー随一の開発能力を誇る日産自動車だった。
日産初の専用ショーファードリブンカーは、1965年10月に発表(発売は同年12月から)される。車名は統率者や治者を意味し、日本の政治・経済を動かす実力者にふさわしい最高級のクルマをイメージして“プレジデント”と名づけられた。
150の型式を付けたプレジデントは、全長5045mm/全幅1795mm/ホイールベース2850mmの立派な体躯に威厳のあるスタイリングを演出する。米国製フルサイズカーを凌ぐ広さを確保したインテリアでは、ダッシュボードから天井、リアシートバック上端部にまではりめぐらしたソフトパッドや30種類も用意したコンフォートアクセサリーなどが特徴だった。搭載エンジンはオイルタペットやサイレントチェーン、4バレルキャブレター、デュアルエグゾースト、アルミ製シリンダーヘッドを採用したY40型3988cc・V8OHV(180ps/32.0kg・m)の強力ユニットとスタンダード版のH30型2974cc直6OHV(130ps/24.0kg・m)の2機種を設定する。車種バリエーションは最上級グレードのD仕様を筆頭に、C/B/A仕様の4タイプをラインアップした。
市場に放たれたプレジデントは、まず羽田空港国際線メインロビーのターンテーブルに展示され、乗降客や送迎者の大注目を浴びる。その後、総理府管轄の佐藤栄作首相の専用車、高松宮家の御料車、官公庁や大企業の送迎車として各所に納入された。
日産プレジデントのデビューから2年弱が経過した1967年9月、トヨタ自動車工業が満を持して新型のフルサイズカーを発表(発売は同年11月から)する。創業者の豊田佐吉の生誕100年=1世紀を記念して“センチュリー”と名づけた大型高級車は、宇治平等院の鳳凰を基にデザインしたエンブレムや日本情緒を漂わすボディカラー(カムイ・イターナルブラック/フジ・ノーブルホワイト/ヘイアン・ノーブルホワイトなど6色)を採用してオリジナリティ性を強調。さらに、既存の大型高級車にはない独創的で荘重なスタイリングや豪華装備を満載した室内、新開発のアルミ製3V型2981cc・V8OHVエンジン(150ps/24.0kg・m)の搭載、密閉式空気ばねを組み込んだフロントサスペンションの採用など、あらゆる面で贅を尽くしていた。車種展開は最上級グレードのD仕様を筆頭に、C/B/A仕様の4タイプを用意。生産は提携企業である関東自動車工業の専用ラインで、半ば手作りで行われた。
市場デビューを果たしたVG20型系センチュリーは、日本を強調したキャラクター造りの巧みさもあって、プレジデント以上の脚光を浴びる。とくに高位の宮司や僧侶を送迎する公用車としては、非常に高い人気を獲得した。
国産フルサイズカーのカテゴリーを開拓したプレジデントとセンチュリーは、デビュー後も改良の歩みを止めなかった。
プレジデントは1973年8月にビッグマイナーチェンジを敢行して型式を250型とし、エンジンはY40型からY44型4414cc・V8OHVへと換装。1975年以降は排出ガス対策に追われ、1977年8月には最上級仕様の“ソブリン”シリーズを追加する。1982年11月になると内外装の変更を実施して新鮮味を高め、1985年1月には最高級グレードのソブリンVIPを発売した。
一方のセンチュリーは、1973年4月に搭載エンジンを3V型から4V型3376cc・V8OHVに変更。'70年代後半の排出ガス対策を経て、1982年10月にはマイナーチェンジによって内外装のリファインと5V型3994cc・V8OHVエンジンへの換装を実施する。そして1990年9月には、ホイールベースを150mmほど延長したロングボディのLタイプを追加した。
結果的に初代プレジデントは改良を繰り返しながら1990年、初代センチュリーは1996年まで生産が続けられ、2車ともに日本が誇るショーファードリブンカーに成長したのである。ともにメーカーを代表するフラッグシップだけに完成度は実に高かった。