日本の道11/関越自動車道02 【1972〜1991】

急峻な谷川岳を横断する長大な高速道路トンネルの建設

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首都圏と日本海沿岸地域を結ぶ高速道路の建設計画

 高速道路網の建設が相次いで計画されていた1963年7月、首都圏と日本海側を結ぶ本州縦断形の高速道路、「関越自動車道建設法」が議員立法の形で制定される。さらに1966年7月になると、幹線道路網の整備を策定した「国土開発幹線自動車道建設法」が作られ、関越自動車道の建設計画はこの中に組み込まれることとなった。

 実際の関越自動車道の建設は、1967年3月より練馬IC〜川越ICを端緒に工事が開始される。また、新潟県の長岡ICや群馬県の前橋ICなどからも随時工事が進められた。一方で関越自動車道はその行程上、巨大かつ難関な構造物を設けることが必須課題となる。谷川岳を横断する長大トンネルの建設だ。

多様な地質に配慮した創意工夫の大工事

 長大トンネルは1972年6月にトンネル部を含む月夜野IC〜湯沢ICの建設命令が施行され、1977年7月より湯沢側坑口付けが、同年10月に水上側坑口付けが行われる。起工式は1977年11月に開催された。

 険しい岩盤と複雑な地形、そして変化の激しい気候などで知られる谷川岳を横断するだけに、トンネル工事にはさまざまな工法や管理システムが導入される。ダイナマイトを使った全断面掘削工法による“山はね”(硬い岩盤の掘削によって生じた切羽面に岩盤内部からの圧力が集中し、岩塊が飛び出す現象)を防ぐロックボルト工法、アリマッククライマ工法(万太郎立坑)とレーズボーラ工法(谷川立坑)による換気用立坑、電気集塵機を組み入れた立坑送排気縦流換気方式、150mおきに設置したジェットファンなどを採用。超難関のトンネル建設に挑んだ。ちなみに、アリマッククライマ工法とは坑壁に取り付けたガードレールを利用して昇降する〝切り上がりクライマ″を利用して発破のための削孔および装薬作業を行う方式。坑底部の地下換気所に作業員が退避した後に発破することを繰り返して地上に切り上がっていく。もうひとつのレーズボーラ工法は大型ボーリングマシンを使って小口径のビットを地上から地下換気所に向かって掘り進め、貫通後に径の大きいビットに交換して回転しながら引き上げることにより導坑を施工する方式だ。いずれも複雑な地質で、かつ上信越高原国立公園内に立坑することから、特殊な工法が採用された。

 工事中は岩盤破裂や大量の湧水の浸入、石英閃緑岩/ホルンフェルス/凝灰岩/変質玄武岩/変質安山岩/斜長流紋岩といった硬軟変化の激しい地層に苦労したものの、懸命の努力と創意工夫で建設が続行される。そして1982年2月にはついに10.926mの長大トンネルが貫通し、1985年10月になって「関越トンネル」として供用を開始した。

4車線化を目指して2期線を施工

 関越自動車道自体の開通過程に関しては、まず1971年12月に練馬IC〜川越ICが供用を開始。1975年8月には川越IC〜東松山ICが、1978年9月に長岡IC〜長岡JCT、1980年7月には東松山IC〜前橋ICが開通する。1980年9月になると、長岡JCTが開通して北陸自動車道とつながった。高速道の建設はさらに続く。1982年3月には越後川口IC〜長岡ICが、同年12月には小出IC〜越後川口ICが、1983年10月には六日町IC〜小出ICが、1984年11月には湯沢IC〜六日町ICが開通する。そして関越トンネルが完成した1985年10月、前橋IC〜湯沢ICの供用開始によって関越自動車道246.3kmの全線が供用を開始した。

 当初の目的通り、関越自動車道によって首都圏と日本海側の物流は一気に促進される。一方、同ルートの周辺地域には多くのスキー場が設置されたことから、シーズンになると激しい渋滞が起こるなどの問題も発生。これに対処するために、1980年代後半から1990年代初頭にかけて四車線工事が急ピッチで行われ、1991年10月には関越トンネルの2期線の完成を経て全線4車線化を成し遂げた。

 下り線10.926m/上り線11.055mの片側二車線、計4車線となった関越トンネルは、完成後も安全性と利便性を高めるためのさまざまな改良が加えられる。トンネルの入口には、上下線ともに事故や火災などの緊急時に備えて信号を設置。また、トンネル照明についてはオレンジ色のナトリウム灯から明るくて長持ちし、かつ自然な色で物が見える蛍光灯に順次交換する。さらに、2012年12月に発生した中央道上り線笹子トンネル天井崩落事故を受けて、関越トンネルの緊急点検および補修、天井板の部分撤去などを実施した。