スズキ・エンジン01 【1951〜1967】

自転車用補助エンジンから出発

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自転車用補助エンジンの開発

 第二次世界大戦後、政府の繊維産業復興策などで活況を呈していた鈴木式織機製作所。しかし、長引く戦後インフレや繊維価格の暴落などで経営状態は逼迫する。そのため1951年1月には会社の体制を一新し、新たな事業を展開することとなった。
 その中心となったのが、戦前にも企画していたオートバイの開発だ。最初は陸軍から払い下げられた6号無線発電機用エンジンを自転車取り付け用に改良し、1952年1月には30ccの2ストロークエンジンが完成する。そして同年3月には、排気量を36ccに拡大した試作車を作り上げた。これがベースとなり、1952年4月に初の市販バイクとなる「パワーフリー号」を発売する。このパワーフリー号は、他社製のバイクがベルト駆動であったのに対し、チェーン駆動を採用していた。

 鈴木式織機のスタッフはその後も精力的に新エンジンを開発し、1953年3月には60ccの2ストロークエンジンを搭載する「ダイヤモンド・フリー号」、1954年5月には4ストロークの90ccエンジンを積む本格的モーターサイクルの「コレダ号CO型」をリリースする。1954年6月には社名を鈴木自動車工業と改名。この時点ですでに鈴木自工は、生産規模と販売台数において本田技研やヤマハ発動機と肩を並べる3大バイクメーカーのひとつになっていた。

四輪車用エンジンへの進出

 モーターサイクルの成功で資金を増やし、エンジンの開発にも自信を深めた鈴木自工は、1950年代中盤に入ると4輪車の量産を計画するようになる。1954年にはVWビートルやロイトのFFミニカーなどを購入して研究。最終的にはロイトを参考にした軽自動車枠の試作車、「スズライトSF」を完成させた。ロイトに白羽の矢を立てたのは、2ストロークエンジンとFF機構を採用していたからだといわれる。モーターサイクルの開発で培った2ストロークエンジン技術が生かせ、しかもFFならトラックやバンを製作する際に荷台が低くなるために有利、と判断したのである。

 1955年10月、試作車を改良した市販版の「スズライト」がデビューする。ボディタイプはセダン、ライトバン、ピックアップを用意。搭載エンジンは空冷2ストロークのL型360cc直列2気筒で、16ps/3.2kg-mのパワー&トルクを発生した。3ボディで四輪車への進出を図った鈴木自工。しかし当時、一般庶民にとって乗用車は高嶺の花だった。そのため1957年5月にはライトバンだけの生産に絞られる。ライトバンは1959年7月にモデルチェンジしてTL型へと移行。この時、エンジンは2つのシリンダーを分離して鋳造性の向上を図り、さらに冷却フィンを増大してクーリング性能を引き上げたT型に進化した。

独自のオイル潤滑システム導入

 軽乗用車が普及し始めた1960年代初め、鈴木自工は再び乗用車の開発に着手する。そして1962年3月、「スズライト・フロンテTLA」をリリースした。このTLAは軽自動車で初めてリアにトランクルームを設けた1台で、エンジンはT型を流用する。その後もスズライト・フロンテは改良を続け、1963年5月には「フロンテFEA」が登場し、エンジンはボア×ストロークが61.0×61.5mm(T型59.0×66.0mm)のFE型に一新した。また、このFE型にはインレットマニホールドにオイルを滴下する自動混合潤滑装置の“スズキ・セルミックス”が導入され、圧縮比を下げながら従来型と同等のパワー&トルクを発生する。さらにFE型は、65年4月にセルミックスからクランク注油潤滑に、同年10月にはクランク注油潤滑からCCI(シリンダー・クランク・インジェクション)へと変更され、潤滑の効率と信頼性を高めていった。

 スズライト・シリーズを進化させる一方、鈴木自工は1960年代に入ると小型車の開発にも着手し始める。そして1965年10月には「フロンテ800」を発表し、2カ月後の12月から販売を開始した。
 フロンテ800は独特のメカニズムで注目を集めた。エンジンはC10型785cc・直列3気筒の2ストロークで、ユニット自体を左に30度ほど傾けて縦置き搭載する。潤滑は鈴木自工独自のセルミック式を採用した。意気揚々とデビューしたフロンテ800。しかし、トヨタやマツダなど先発メーカーによるライバル車の台頭などが災いして販売は奮わず、結果的に1969年には姿を消してしまった。

軽自動車エンジンの高性能3気筒化

 小型乗用車は不発に終わった鈴木自工だが、軽自動車のカテゴリーでは順調に販売成績を伸ばしていく。1967年4月には新型の「フロンテ360」(LC10)を発表。駆動方式はFFからRRに改められ、ボディもモノコック式に一新した。搭載エンジンは新世代2ストロークのLC型356cc直列3気筒で、25ps/3.7kg-mの出力を絞り出した。

 一方、このころになると軽自動車の高性能化競争が顕著になる。きっかけは1967年3月にデビューした本田技研のN360で、31psの最高出力と115km/hの最高速度は他社の軽自動車を圧倒していた。この状況に対し、鈴木自工は1968年11月にスポーツモデルの「フロンテSS」をリリースする。エンジンはLC型をベースに圧縮比を高め(6.8→6.9)、アルミ合金製のシリンダーを採用し、口径の大きいキャブレターを3連装したハイパフォーマンス版で、36ps/3.7kg-mのパワー&トルクを叩き出す。得られた最高速度は125km/hで、0→400m加速は軽自動車として初めて20秒の大台を切る19.95秒を達成した。

 高性能化を競ってエンジンのパワーアップと耐久性の向上に汗を流す鈴木自工。しかし、70年代に入るとその戦略は方向転換せざるを得なくなる。大気汚染が社会問題化したため、時の政府が排出ガス規制の本格的な実施を決定したからだ。結果的に70年代中盤の鈴木自工製エンジンは、排出ガスのクリーン化に追われることとなった−−。