高速道路の歴史1 /1963- 【1963】

物流革命を起こした高速産業道路



海外の技術を吸収し、独自に発展させていく──。
日本のオハコともいえるこの政策は、
何もクルマに限ったことではない。
クルマが移動する“高速道路”にも当てはまる。
国は1950年代初頭に高速道路建設の調査を開始。
さまざまな困難を乗り越えながら、
建設に取り組んでいった。
■高速道路建設に向けた動き

 第二次世界大戦の終結から5年ほどが経過した1950年、時の政府は国土総合開発法を公布する。その結果、特定地域の総合的な開発や都道府県計画の策定が進み、地域開発の気運が全国的に高まり始めた。一方、国土の開発における大きな問題点も明らかになる。地域を結ぶための物流の交通網、つまり道路の整備だ。とくにモノがスムーズに、しかも早く大量に運べる高速道路の建設が必要不可欠とされた。

 1951年、建設省の道路局は戦争で中断していた高速自動車道整備調査を再開する。翌1952年6月には旧道路整備特別措置法が制定され、東京〜神戸間の路線調査が始まった。ここで問題となったのが高速道路建設のための資金で、政府は世界銀行からの借款を計画する。しかし、借款の承認を受けるためには客観的な要素、具体的には外部の専門家による後押しが必要となる。1956年3月に整備内容がより具体化された道路整備特別措置法が成立し、同年4月に日本道路公団が設立されると、関係者はアメリカから経済調査の専門家であるラルフ・J・ワトキンス一行を招聘した。ワトキンス調査団は最初の高速道路の建設予定地、名古屋・神戸間を視察し、その道路環境の悪さに驚嘆する。そして、「工業国にして、これほど完全にその道路網を無視した国はほかにない」「高速道路があれば、製品の在庫が減り、輸出も促進されるはず」との旨を記した報告書をまとめた。ワトキンスの報告書は世界銀行に提出され、最終的には総額288億円の融資を日本に行う決定を下している。

■名神高速道路の建設

 1957年4月に高速自動車国道法が成立し、10月に建設大臣から名神高速道路の施行令が出ると、道路公団は早速、用地取得作業やコース設計を本格化させる。翌1958年にはアウトバーンの設計に携わったドイツ人の技術コンサルタント、クサヘル・ドルシュを招いて、高速道路設計のアドバイスを受ける。同年10月に工事が着工した後もドルシュの来日は続き、最終的には十数回も日本に足を運んで公団技術者たちとディスカッションを重ねた。

 ドルシュが設計の助っ人なら、建設現場にも重要な助っ人がいた。土木工法の技術コンサルタントでアメリカ人のポール・ソンデレーガーである。理論ではなく、現場の状況を見て最終判断を下すその姿勢は、のちの高速道路建設の規範になったという。ちなみにドルシュとソンデレーガーの2人の助っ人は、高速道路が完成した後の1968年にその貢献が評価され、建設大臣から表彰を受けている。

 2人の助っ人が最も頭を悩ませたのは、高速道路の基盤となる盛り土の高さだった。周囲の土地の使用に制限があり、多くの横断道路を作らなければならない日本特有の事情は、設計でも現場でも多くの困難を生み出した。さらに舗装路の根幹をなすアスファルトの製造、山地を貫く大規模なトンネル工事など、さまざまな難題が降りかかる。ひとつひとつを克服し、名神高速道路の全線189.7kmが開通したのは1965年7月のことだった。

■高速道路網の発展

 日本の高速道路網の整備は、名神開通後も急ピッチで進められる。1967年12月には中央道の調布〜八王子間が開通。翌年の4月には東名の東京〜厚木、富士〜静岡、岡崎〜小牧間が完成した。さらに1970年3月には近畿道の門真〜吹田間と中国道の中国吹田〜中国豊中間、1971年6月には九州道の植木〜熊本間、71年10月には東関東道の宮野木〜富里間、1971年12月には道央道の千歳〜北広島間、1972年10月には北陸道の金沢西〜小松間、1972年11月には東北道の岩槻〜宇都宮間などが開通している(一部抜粋)。

 高速道路網の整備に伴い、国産車の性能は飛躍的に向上していく。当初の目的通り、物流も盛んになった。日本のモータリゼーション発展の大黒柱──それが高速道路の真の役割だったのである。