昭和とクルマ04 【1955,1956,1957,1958,1959,1960】

モータリゼーション到来を予感させた1950年代後半



トヨタ渾身の純国産乗用車のデビュー

 朝鮮戦争での“特需”で資金を蓄えた日本の自動車メーカーは、念願の国産乗用車を開発する体制を急ピッチで整えていく。その過程で、自社開発組と欧州メーカーとの技術提携組に大きく分かれた。1950年代前半は技術提携組の進捗が目立ったが、後半に入ると自社開発組が注目を集めるようになる−−。自社開発組の代表が、クラウンであり、スカイラインだった。またオースチンで最新の乗用車作りを学んだ日産自動車の独自開発モデル、ダットサン110も高い人気を集める。

 ノックダウン生産の手法は採らず、自社の技術力向上によって乗用車造りを進化させようとしたトヨタ自動車工業は、その集大成として新しい上級乗用車を1955年1月に発表する。車名は“国産車をリードする王座のシンボル=王冠”から「クラウン」と命名した。タクシー用の「マスター」を別系列とし、オーナーカー専用車として企画されたクラウンは、フロントにウイッシュボーン/コイルの独立懸架、リアに3枚板バネ・リーフリジッドのシャシーを採用する。動力源にはR型1453cc直列4気筒OHVエンジン(48ps)を積み込んだ。
 RSの型式をつけて登場したクラウンは、既存の乗用車を凌ぐ快適な乗り心地や優れた耐久性、豪華な内外装などで高い人気を集める。また、それまで耐久性と信頼性の面で独立懸架の足回りを敬遠していたタクシー業界も、クラウンだけは認めるようになった。そのため、トヨタは1956年11月をもってマスターの生産中止を決定し、クラウンをオーナーカー兼タクシー用途車に位置づけたのである。

国民車構想を契機とした自家用車の開発

 神武景気が始まった1955年、時の通産省は工業界を発展させるための新たな戦略に打って出る。国が自動車普及を主導する「国民車構想」を立ち上げたのだ。この案は1955年5月に新聞に報道される形で明らかとなり、その後に国会の商工委員会や自動車工業会などで活発な議論が展開された。最終的に通産省が想定した国民車は「現状の条件では成立困難。さらに研究する必要がある」という結論に達し、案は立ち消えとなる。しかし、これを契機として各自動車メーカーは独自の国民車を企画するようになった。

 代表的な国民車の流れを見ていこう。まずトヨタ自工は、1956年に独自の国民車の試作モデルである「1A」の第1号車を報道陣に披露する。トヨタ版国民車はクルマの基本コンセプトとして、4人乗りで十分なスペースを持つ、悪路にも高速道路にも対応する、広い温度範囲に渡って高い耐候性を確保する、価格と維持費が安い−−などを掲げる。実際の開発は、トヨタ自工本体とボディ製造会社の関東自動車工業の2本立てで行われた。トヨタ自工では、新設計の空冷水平対向2気筒OHVエンジンに前輪駆動を採用した試作車「1A」を製作。一方の関東自工は、既存のS型エンジンを搭載した試作車「SX」を手がけた。そして前述したとおり、「1A」の第1号車がトヨタ自工の挙母工場にて公開された。

 市販版は1Aを基本とすることが決定し、開発現場ではさらなる改良が加えられていく。駆動レイアウトのFFは等速ジョイントの振動の多さや耐久性の問題から、オーソドックスなFRに変更。また、シャシーの軽量化や空冷エンジンの熱対策なども実施していった。そして1961年6月になって、1Aの市販版の「トヨタ・パブリカ」がリリースされるのである。

ユーザーに夢を与えたスバル360

 次に富士重工業。同社は独自の国民車構想として、生産計画の“K-10”を1955年に立ち上げる。車両コンセプトは「大人4名がゆったりと乗れること」で、開発陣は最初に全長3000×全幅1300mmの長方形を描き、そこに4つの座席をできるだけゆったりととることから検討を始めた。残ったスペースに割り当てるドライブトレーンは様々な検討の結果、RRに決定。同時にミッションとデフを一体化してコンパクトにまとめたユニットを横置き搭載するという新機軸も盛り込む。乗り心地のよさを重視したサスペンションには、四輪独立懸架を採用した。肝心のボディに関しては、モノコック式を基本としながら徹底した軽量化が図られる。エンジンはスクーター用を発展させた2サイクル空冷2気筒356ccを積み込んだ。

 富士重工版の国民車として1958年に発売された「スバル360」は、まず当時の有識者から注目を集める。第1号車のオーナーは松下幸之助氏。さらに、横綱の吉葉山関など各界の著名人がオーナーリストに名を連ねた。もちろん市場での人気も非常に高く、デビュー年に早くも販売台数1000台を突破し、翌1959年には5870台にまで数字を伸ばしたのである。この他にもスズキのスズライトなど、国民車を目指したモデルは多く、それぞれが個性的だった。

国産車初の一大ブームを巻き起こした「ミゼット」

 1950年代半ばごろの日本の商用車市場は、大型化した三輪および四輪トラックとモーターサイクルのあいだに隙間が生じていた。既存のトラックよりも小回りが利き、モーターサイクルよりも荷物が積める1台をユーザーは求めている——そう判断したのが、大阪に拠点を構えるダイハツ工業だった。
 ダイハツの開発陣は利便性と経済性の高さを踏まえ、クルマのディメンションを軽三輪トラックとする。搭載エンジンは強制空冷2サイクル単気筒249cc(8ps)で、最高速度は60km/hに達した。

 ダイハツ製の新しい軽三輪トラックは、「ミゼット」(DKA型)の車名を冠して1957年8月にリリースされる。ダイハツは広告展開にも注力。同社提供のTV番組、『やりくりアパート』で大村昆さんと佐々十郎さんがミゼットの生CMを熱演。かけ合いで車名を連呼し、ミゼットの知名度を大いに引き上げた。月産500台でスタートしたミゼットは、1958年になると販売台数が激増する。1960年9月には10万台の累計登録台数を記録し、販売を終了する1972年までにはその数が約32万台に達した。結果的にミゼットは、国産車で初めて一大ブームを巻き起こした記念碑となったのである。この他、現在でも世界中で高い人気を誇る2輪界の国民車、ホンダのスーパーカブも1950年代後半を象徴するモデルだった。