トラック&バスの歴史1 【1904,1905,1906,1907,1908,1909,1910,1911,1912,1913,1914,1915,1916,1917,1918,1919,1920,1921,1922,1923,1924,1925,1926,1927,1928,1929,1930,1931,1932,1933,1934,1935】

陸軍と関東大震災がもたらした発展



生活をサポートするトラックとバス。
この重要性を早くから認知していたのは
陸軍と資産家たちだった。
彼らは積極的に国産技術の発展をサポートし、
独自モデルの開発を促進させた。
そして悲劇の関東大震災。
困難は技術発展のきっかけだが、
震災復興にトラックとバスは重要な役割を果たし
人々の生活に欠かせないものとなった。
国産初の自動車はバスだった

 国産自動車の歩みは、乗り合い自動車(バス)からスタートした。1904年(明治37年)、岡山の電気技術者、山羽虎夫が1年の歳月を掛けて製作した「山羽式蒸気自動車」が純国産自動車の基礎なのである。ガソリンを燃料とするオリジナル設計の空冷2気筒/25psの蒸気エンジンをフロントに搭載した、いわば“馬なし馬車”というイメージの車両で、荷台部分に人や荷物を積めるように配慮していた。全長4500mmの山羽式蒸気自動車の最高速度は8km/h。完成後すぐのテストで見事に走ってみせたが、当時の劣悪な道路状況に対してタイヤが音を上げた。リムからタイヤが脱落する現象が頻発。残念ながら乗り合い自動車として実用に供されることはなかった。

 山羽式蒸気自動車は、1903年に大阪で開催された第五回内国勧業博覧会で自動車を見た岡山県の資産家たちが、乗り合い馬車に替わる乗り合い自動車の営業を計画したことにより製作されたものだった。輸入車が高価だったこともあるが、日本に自動車技術を根付かせることの重要性を感じた資産家の英断が山羽式自動車を生んだ。結果的にタイヤのトラブルで実用にはならなかったものの、その蒸気エンジンは後に船舶に搭載され30年ほど使い続けられたという。技術的にはすでに高い完成度を誇っていたのである。

 1907年には国産ガソリン自動車第1号となるタクリー号が完成。自動車好きだった有栖川宮の援助により東京自動車製作所が作り上げたタクリー号は、自社設計の水平対向2気筒エンジン(一部は米国ハーレー製エンジン)を搭載した実用車で、合計14台ほどが生産された。そのうち2台は乗り合い自動車だった。

トラックの重要性を陸軍が認識

 トラックの重要性を認知したのは産業界ではなく陸軍だった。すでに1902年に三井呉服店(現在の三越の前身)がフランス製のクレメント号を改造したトラックを配送用に使用していたが、これは実用というより、宣伝効果を高めるための起用といえた。しかし陸軍は兵員と武器の効率的な移動に、戦術上トラックが有効であるとすでに認識していたのである。

陸軍は1907年にフランス製のノーム号、翌年に同じフランス製シュナイダ号をサンプル輸入。1911年には英国製ソーニークロフト号、ドイツ製ベンツ・ガッデナウ号を追加輸入して性能を徹底比較した。その結果1911年5月にノーム号をベースにした国産軍用トラック「甲号」2台を大阪砲兵工廠で完成させる。6月には東京工廠でも試作車を製作。翌月に軽井沢までのテスト走行を行い完成度を引き上げる。1912年には正式に軍用保護自動車調査委員会を設定し、軍用自動車の標準仕様が決定された。2トン積みの甲号に続き、4トン積み丙号、3トン積み丁号が作られたのもこの時期である。

 1918年には陸軍によって軍用自動車保護制度が発布される。これは保護自動車として資格検定を取得した車両のメーカーとそのオーナーの双方に補助金を交付することで軍用に耐えるトラックの確保を目的とした保護制度だった。軍用自動車の資格基準は7日間100kmに渡る運行試験とともに5分の1勾配の登坂試験に合格することが求められメーカーにとっては厳しい注文だった。しかしこれが日本の自動車技術の発展に大いに力となったことは間違いない。

 すでに1917年に陸軍からの委託で制式4トントラックを製作していた東京瓦斯電気工業(現在の日野自動車の前身)では、同年に独自設計による最初のトラックTGE・A型を発表。1918年には軍用保護自動車の資格試験に合格し、3年間に20台ほどの量産に移行する。その後も1922年にはTGE・G型、1927年TGE・GP型へと発展し国産トラックの基礎を完成させた。

関東大震災がもたらした円太郎バス

 困難が、発展の礎になることは歴史が証明しているが、日本の自動車界にとっても例外ではなかった。広く一般にバス&トラックの有効性を認知させたのは1923年(大正12年)9月に首都圏を襲った関東大震災だった。震災によって多くの尊い人命と建物、そして民衆の足として親しまれていた路面電車網が失われた。復興に大活躍をしたのがトラックとバスだった。政府援助の民間輸送依嘱団が救援物資の配送を担当し、鉄道省では急遽、米国から1000台ものトラックを緊急輸入することを決定した。

 路面電車に替わる民衆の足は“円太郎バス”がその役を担った。当時世界で最もポピュラーだった米国T型フォードのシャシーを800台急遽輸入し、日本で木工製ボディを設えた急場しのぎのバスだったが、信頼性は抜群。乗り心地こそよくなかったものの、瞬く間に路線を拡大し復興に大きな力を与えた。当初は路面電車の復旧までの暫定運行の予定だったが、その人気から復旧後もそのまま存続、首都圏だけでなく日本全国で拡大していった。関東大震災以降、トラックとバスは民衆の生活にとって欠かすことの出来ないものとして認知されることになる。