道路交通情報の歴史-01 【1961〜】
情報の一元化とスムーズな伝達への努力
戦後1946年にまずトラックが、翌年に乗用車の生産が許可され、日本のクルマ社会は本格化していく。クルマの保有増加に呼応してすぐに問題となったのは交通渋滞である。渋滞を科学する指標として、その道路にどれだけの車両が走れるのかを示す“道路容量”と、実際に走ろうとするクルマの量を示す“交通需要”があるが、渋滞は交通需要が交通容量を上回ったことによって発生する。
戦後まだクルマの絶対数が少ないうちから、なぜ渋滞が発生したのか。それは道路状況が劣悪だったからである。1959年、名神高速道路建設の経済的・技術的な妥当性を検証するため世界銀行から派遣されたアメリカのワトキンス調査団の「日本の道は信じられないほど悪い。工業国にして、これほど完全に道路網を無視してきた国は、日本のほかにない」という報告は有名だが、まさに日本は人馬用の狭い道を、無理矢理クルマが走っている状態。地方の道など舗装もなくまだ獣道といったイメージだった。交通渋滞が発生するのは必然だったのである。
悲惨な道路状況を改善するため、名神高速道路を筆頭に道路の建設が積極的にはじまり、東京もオリンピックが開催された1964年には環状7号線が完成。首都高速道路の整備などで道路事情は一変した。しかし渋滞は一層ひどくなっていた。確かに道路容量は増したのだが、それ以上にクルマの数が増加、道路需要が伸びていたからである。
交通渋滞は、社会発展にとって大きな損失を生む。人と物のスムーズな流れを阻害するからだ。そこでクローズアップされたのが“交通情報”である。道路の整備は一朝一夕には進まない。しかしリアルタイムで道路の渋滞情報を伝達できれば、道路需要の調節ができる。あらかじめ渋滞を知っていれば、他の道に迂回することもできるし、不要不急のクルマは外出そのものを控える可能性が高い。警察庁、各道府県など道路を管理する側は、効率よく道路情報を伝達するシステム作りに積極的に取り組むことになった。
画期的な第一歩となったのが1961年6月、警視庁に発足した「道路情報センター」である。各地の渋滞情報を一元管理し、ラジオなどを通じてリアルタイムに交通情報を知らせるメディアセンターだった。設立当時は各地から入ってくる情報を各ラジオ局に送るか、そのまま放送するかの業務を行い、壁には都内の道路地図が掲載されているのみだった。1963年には壁面に大きな電光掲示板が登場。都内の道路の渋滞事情がひと目で分かるシステムとなり、スタッフは交通情報を伝えやすくなった。ちなみに渋滞のひどい順に赤、橙、緑のランプが点り、渋滞がない場合は点灯なしという仕組みだった。
現在、日本の道路情報の収集・提供業務は「(財)日本道路交通情報センター」が一元的に行っている。警視庁内に発足した道路情報センターが発展した組織で、発足は1970年1月。交通管理機関(警察庁・警視庁・道府県警察本部)、道路管理機関(国土交通省・各高速道路会社・道府県土木本部)の委託により発足した国土交通省、警察庁共同所管の業務機関である。略称はJARTIC(ジャーティック)と言う。
具体的な仕事は、各管理機関の交通管制システム等とオンラインを結び、刻々と変わっていく道路交通情報を収集。道路利用者にリアルタイムの交通情報を提供することだ。情報の提供メディアは、ラジオやテレビ、携帯電話、カーナビなどだが、電話での個別問い合わせにも対応している。一般的なのはラジオを通じての情報提供で1週間にその回数は約8000回。ちなみにテレビは240回となる。
情報を伝えるのは日本道路交通情報センターの職員。この業務のために全国134カ所に職員が配置されている。しかしFMやAMの民放ラジオ局の一部は局アナウンサーやパーソナリティが情報を読み上げるケースもある。ちなみに職員が伝える場合は情報の最後に「日本交通情報センターの○○がお伝えしました」というのが通例だ。
ところで“渋滞”と“混雑”の違いをご存じだろうか。渋滞は混雑がさらに増した状況で、走行速度によりその度合いを測っている。渋滞は、高速道路で40km/h以下、都市高速道路で20km/h以下、一般道で10km/h以下に走行速度が低下した状態。一方混雑は都市高速と一般道の状況を示す表現で、走行速度が都市高速で20〜40km/h、一般道で10〜20km/hになった場合を示している。渋滞は交通需要が交通容量を超えた状態。混雑は交通需要が交通容量ぎりぎりの状態だ。事故や工事以外の交通需要増加による自然渋滞&自然混雑は、渋滞&混雑全体の7割を占めるという。