警察車両(パトカー)の歴史 【1950】
新しい「機動力」の確保
強盗や殺傷事件などの犯罪が多発していた。
これに対してGHQの公安課は、
日本の自治体警察に自動車による警ら活動を指示する。
1950年には日本で初めて警視庁にパトカーを配備。
新たな「機動力」は次第に全国に広がっていった。
戦後の混乱が続く1940年代後半の日本。治安はまだ安定しておらず、街では犯罪が多発していた。この状況に業を煮やした時の占領軍のGHQは、公安課を通じて自治体警察による自動車の警ら活動を指示する。
1950年6月、まず自治体警察であった警視庁に国産車を改造した無線付きの警ら車、いわゆるパトロールカーが3台配備される。ベース車は戦中に設計されたニッサン180型トラックで、このシャシーにセダンボディを被せたものだった。ちなみにパトカーの配備とほぼ時を同じくして、朝鮮戦争が勃発する。日本ではマッカーサー指令によるレッドパージが盛んになり、自治体警察の仕事もますます増えていった。
パトカーのボディ色に関しては、当初からツートンカラーが採用された。これには大きな理由がある。戦後間もなく、自治体警察の一部では移動用に白色に塗装したジープ型車両が使われた。しかし、当時の道路は未舗装路がほとんどだったために車体の汚染が激しく、警察は頭を悩める。そこで参考にしたのが、アメリカのパトカーだ。汚れやすいボディサイドやフロント部を塗装し、ルーフまわりとボンネットは白いままとした。これが今なお続く“白黒ツートン”パトカーの原型だ。ただし、最初に配備されたニッサン180の改造車は白緑(白青という説もあり)のツートン。これは参考にしたアメリカ製パトカーのパターンに倣ったらしい。パトカーが白黒ツートンに統一されたのは1955年のことだった。
最初に配備された3台のパトカーは、品質の悪さからよく故障をした。乗り心地も悪く、警官にとっては重労働だったという。そのため、パトカーのベース車は米軍払い下げのシボレー製が次第に増えていった。
警察の苦労はこれだけでは終わらなかった。「混信や傍受の危険性がある」ことからGHQの判断で無線が降ろされたため、パトカーは頻繁に迷子になる。その途中で田畑に落ちる車両も多かったという。超短波無線機が搭載されるのは、50年代末まで待たなければならなかった。
国産車の品質が上がり始めた60年代に入ると、パトカーも新車の国産モデルをベースにするようになる。まず主力となったのがトヨタ自工のクラウンで、これにランドクルーザー用のF型エンジンを搭載したトヨタ・パトロールFS20型が大量に配備された。さらに日産自動車のセドリックやいすゞ自動車のベレルなどもパトカーのベース車に採用され、やがて警察車両は国産モデルだけが使われるようになった。
高速道路が開通すると、スポーツカーもパトカーのベース車として採用されるようになる。日産自動車のフェアレディZや東洋工業のコスモ・スポーツなどが、高速道でのスピード取締りに当たった。
違法駐車が問題化し始めた都市部では、軽自動車ベースのパトカー、通称ミニパトが活躍し始める。ベース車はスズキ・フロンテやダイハツ・フェローMAXなどで、運転は主に女性の警察官(当時の言い方では婦警)が担当した。
70年代末から80年代にかけては、外車のパトカーが一部で復活する。ポルシェ911やBMW3シリーズが白黒に塗られ、メルセデス・ベンツが覆面パトカーとして配備された。このなかで最も有名なのは新潟県警のポルシェ911SC(78年型)だろう。北陸自動車道の開通時に配備されたこのモデルは県警の広告塔としても活躍し、パトカーとしては異例の20年以上の長きに渡って使用されている。
最後に、パトカーならではの装備品である赤色警告灯とサイレンの変遷を紹介しておこう。赤色警告灯は当初、集光式を採用していた。その後、円筒形の回転式、棒形の散光式を経て、いまはV形(ブーメラン型)散光式がメインとなっている。サイレンについては当初はモーター式を採用していたが、現在はアンプ式の機構が主流だ。