サンタナ 【1984,1985,1986,1987,1988】

質実剛健な和製フォルクスワーゲン



日産の貿易摩擦への対応策

 厳しい排出ガス規制と石油ショックを何とか克服した日本の自動車メーカーは、1980年代は海外市場への進出に力を入れ始める。なかでもこの分野での先駆メーカーといえる日産自動車の戦略は、群を抜いて積極的だった。陣頭指揮を執ったのは、1977年に社長に就任していた石原俊で、経済マスコミでは同氏のことを“輸出の石原”と称した。
 一方、ここで大きな問題が発生する。日本車の進出によって、欧米の自動車メーカーの自国シェアが大幅に減ったのである。同時に、日本市場での輸入車に対する閉鎖性が大きくクローズアップされるようになった。この状況は徐々に深刻になり、やがて時の政府を巻き込んだ自動車の“貿易摩擦”として大問題となる。

 このままでは海外市場での事業拡大に大きな支障が出る……。日産自動車の首脳陣は様々な議論を重ね、1980年12月には欧州向けの対策プランを実施する。その対策とは、西ドイツ(現ドイツ)のフォルクスワーゲンAGとの「国際貿易上の問題解決に積極的に貢献することを目的として、全般的な協力関係を樹立する」という合意だった。そして翌1981年9月には、日本でフォルクスワーゲン車のノックダウン生産を行い、販売も日産のディーラーが手がける契約を結ぶこととなる。

選ばれた車種はVWのフラッグシップ

 日本でノックダウン生産するクルマを決める際、日産は自社の車種ラインアップになるべくバッティングしないフォルクスワーゲン車を検討する。選ばれたのは、1981年に欧州デビューしていた同社のフラッグシップモデルである“サンタナ”だった。

 日産の開発陣はサンタナを日本仕様に仕立てるにあたり、5ナンバーサイズに収めるためにサイドモールを薄型にして1690mmのボディ幅とする。さらに日本の法規に則したヘッドライトやサイドマーカー、導入口の広いラジエターグリルなどを装着した。ハンドル位置は右。縦置きに積まれるエンジンはアウディの設計によるJ型1994cc直5OHC(110ps)、フォルクスワーゲン設計のJN型1790cc直4OHC(100ps)、そしてCY型1588cc直4ディーゼルターボ(72ps)の3タイプを導入する。トランスミッションやステアリングギアなどの主要部品も、フォルクスワーゲン社から供給を受けた。またエイクイップメントに関しては、本国でオプション設定の快適装備品をふんだんに盛り込んだ。

 1984年2月、神奈川県の座間工場の専用ラインで生産され、M30の型式を取得した“日産VWサンタナ”が市場デビューを果たす。グレード展開はJ型エンジンを積むXi5とGi5、JN型エンジン搭載車のGiとLi、CY型エンジン搭載車のGtとLtという計6グレードを設定。トランスミッションは、ガソリン仕様が5速MTと3速AT、ディーゼル仕様は5速MTだけを組み合わせていた。ちなみに、サンタナの新車記者発表会の席では、当時フォルクスワーゲン車の輸入・販売権を持っていたヤナセも同席。日産のサニー店系列とヤナセの直営店の2体制で日本生産のサンタナを売る旨がアナウンスされた。

販売台数は伸びなかったものの--

 貿易摩擦の打開策、そして初の和製フォルクスワーゲン車でもあったサンタナは、大きな注目を集めて日本のユーザーから迎えられる。自動車マスコミからも、しっかりとした乗り心地とハンドリングが高く評価された。
 しかし、実際に蓋を開けてみるとサンタナの販売成績は予想外に伸びなかった。1980年代中盤といえばバブル景気の助走期。日本車はハイテクが積極的に採用され、品質も大きく向上していた。そんな状況下で、サンタナの地味なルックスや質素なインテリア、数字上で見劣りするエンジンスペック、さらに同クラスの国産車に比べて割高な価格設定などが、ユーザーの購入欲を刺激しなかったのである。受け入れたのはドイツ流の固めの足回りが好きで、質実剛健の内外装に惹かれたコアなファンだけだった。

 日産はテコ入れ策として、サンタナのラインアップ拡充を実施する。1985年5月には専用セッティングの足回りやスポーツシートなどを装着するXi5アウトバーンを追加。翌87年1月にはマイナーチェンジを実施し、内外装の意匠変更を図った。同時にXi5アウトバーンは直5DOHCユニットに換装される。1988年1月にはXi5をベースに専用の内外装パーツを組み込んだマイスターベルクを300台限定でリリースした。
 さまざまな改良を施した和製サンタナ。しかし、販売成績が回復することはなく、そのうちに貿易摩擦の問題も現地生産化などによって徐々に改善され、1988年末にはフォルクスワーゲン社との提携も解消される。同時に、サンタナのノックダウン生産も中止された。

 販売成績の面では失敗作に終わったサンタナ。しかし、日産にとって高いロイヤリティを払ったことは決して無駄にはならなかった。当時の開発スタッフによると、「ドイツ流のクルマ造りを細部にわたって学べた。また、ドイツ車に対する日産の強みも把握できた」という。その結果は、サンタナの実質上の後継車で具体的な形となって表れる。1990年2月に市場デビューを果たした“プリメーラ”だ。欧州指向の優れたパッケージングと固めの足回りによるスポーティな乗り味は、サンタナでの経験を礎にして完成させたものだったのである。