人物・小杉二郎 【1915〜1981】

日本の工業デザイナーの先駆者

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戦前・戦中の紆余曲折

 工業製品を専門にデザインする、いわゆるインダストリアルデザイナーの存在が日本で認知されるようになったのは、戦後の混乱から立ち直り始めた1950年代ごろだといわれている。その開拓期に第一線で業界を引っ張った人物が、黎明期のマツダ車のデザインで辣腕を奮った小杉二郎である。

 小杉は1915年の3月、日本画家の小杉放庵の次男として誕生する。幼少時代から手先が器用で、父の血を継いで絵画にも長けていた。1933年には東京美術学校(現・東京芸術大学美術学部)の工芸科図案部に入学し、工業デザインの重要性を理解していた父の援助を受けながら勉学に励む。1938年に卒業を迎えるが、卒業制作はイスとテーブルのセットだった。

 卒業後は当時の軍に入営して、中国東北部で兵役に就く。1941年には東京・世田谷の陸軍機甲本部機甲整備学校に移って幹部候補生の教育を受け、太平洋戦争勃発後の1942年には本隊に戻った。軍を除隊したのは1944年。そのすぐ後に商工省工芸指導所(東京本所)の設計部門に勤務した。工芸指導所は産業工芸の振興を目指して時の商工省が1928年に設立したもので、いわゆるインダストリアルデザインの研究の場だった。小杉はついに、本来の働き場に就いたわけだ。

 しかし、戦況の悪化が小杉のデザイン研究の職を奪う。空襲の激化で自宅は全焼し、1945年5月には再び入隊の命が下って戦車部隊に入った。それからわずか3カ月後に終戦を迎え、小杉は失意のままに復員することになる。

東洋工業からの招聘

 敗戦後まもなくの1947年、小杉は一念発起して自らのデザイン事務所、“生産工芸研究所”を設立する。ここで小杉は、もっぱら工業デザインの研究に没頭した。
 そんな最中の1948年、小杉のもとにデザインの相談が入る。相手先は、自動車の開発・生産を本格化させようとしていた東洋工業(現マツダ)だった。これから発展していく自動車のデザインを手がけるのは、小杉にとっても大いに興味をそそられる仕事だった。さっそく両者はタッグを組み、自動車の理想的なデザインを追求することになった。

 1950年、小杉が協力した単眼風防付きの3輪トラックが“Mazda”の名を冠してデビューする。その4年後には、2眼ヘッドライトに先進の曲面ガラス付き風防を備えた3輪トラックが登場した。ちなみに小杉は、マツダ車の開発途中の1952年に「日本インダストリアルデザイナー協会」(JIDA)発足に参加し、1961年までは同協会の理事を、その内の58~59年にかけては理事長の職を務めている。

 小杉はその後も東洋工業との関係を深め、1950年代末には小型3輪トラックのK360(59年発売)のデザインを手掛ける。K360は他社の小型3輪トラックよりも低い車高による安定した走りと居住性のよさが高く評価された。

軽4輪乗用車への挑戦

 3輪自動車の開発で技術力を蓄えた東洋工業は、来るべき60年代に向けて、いよいよ4輪乗用車の分野への進出を本格化させる。まずターゲットに据えたのは軽自動車のカテゴリーで、デザインは長年のパートナーである小杉に依頼した。

 小杉はリアエンジン&リアドライブのメカを念頭に置きながら、東洋工業の4輪車第一弾としてのキャラクターを重視してインパクトの強いスタイリングを目指す。開発陣との相談の結果、前席重視の2+2レイアウトでいくことに決定し、斬新なクーペデザインを構築した。またヘッドライトは3輪トラックと同イメージの半埋込み式とし、ひと目でマツダ車とわかるようにアレンジする。

 1960年4月、東洋工業初の4輪車が「R360クーペ」の名で発表される。先発のスバル360やスズライトとは方向性が異なるそのスタイリングに、誰もが驚いた。自動車マスコミはこぞって「軽飛行機のようなスポーティなスタイル」と褒め称える。小杉が目指した東洋工業の4輪車第一弾としてのインパクトは、見事に具現化されたのだ。

 その後に小杉は、大人4名が乗り込める軽乗用車も手掛けた。後席のルーフ回りは、頭上スペースの開放感を確保するためにスクエア形状とする。その斬新なルーフデザインは“クリフカット”と呼ばれ、1962年2月に市販デビューを果たす「キャロル」の大きな特徴となった。

 キャロルが登場した頃になると、小杉のサポートをしていた東洋工業の社内デザイナーも育ち始め、小林平治を筆頭に頭角を現すようになる。やがて小杉は、同社のデザイン現場からは一線を引くようになった。
 その後の小杉は、インダストリアルデザイナーとして様々な活動を展開する。自動車に関してはイタリアのカロッツェリア的な可能性を探求し、1965年にはやはりデザイナーの松本文郎とともに試作車の「MK600」を手掛けた。

 日本のインダストリアルデザイナーの先駆者として、そしてマツダ・デザインの源流を構築した先達として歴史に名を残す小杉二郎。1981年9月に鬼籍に入ったが、彼が事あるごとに口にしていた「大衆に疑問や不安を抱かせることなく、自分の理想の型に近づけていくことを、もっとデザイナーが研究していかなければならない」という言葉は、現在でも通じる貴重な教訓に違いない。
(文中・敬称略)