スズキの歴史1 第一期/1920-1965 【1920,1921,1922,1923,1924,1925,1926,1927,1928,1929,1930,1931,1932,1933,1934,1935,1936,1937,1938,1939,1940,1941,1942,1943,1944,1945,1946,1947,1948,1949,1950,1951,1952,1953,1954,1955,1956,1957,1958,1959,1960,1961,1962,1963,1964,1965】

繊維織機メーカーから自動車メーカーへ

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軽自動車生産・販売のリーダーメーカー、
世界規模で4輪と2輪を開発する希少な企業、
インドを中心とする独自のグローバル展開。
スズキに冠せられるキャッチフレーズは、
いずれも会社の個性を強調するものばかりだ。
その源泉は、同社の稀有な変遷にあった――。
織機から自動車の製造へ転換

 第2次世界大戦前のスズキは、織機の製作メーカーとして名を馳せていた。1920年3月に静岡県浜松市で鈴木式織機株式会社を設立した創業者の鈴木道雄は、多色織りやサロン織りができる独自の織機を次々と開発し、それらがすべてヒット作となった。海外でもその精度の高さは評価され、“SUZUKI LOOM MFG CO.LTD”と刻印された織機は続々と輸出される。30年代半ば頃には、世界的な織機製造メーカーへと躍進した。

 しかし鈴木道雄は、これだけでは満足しなかった。海外でのモータリゼーションが日本でも波及することをにらみ、自動車の開発を決断する。自社の技術力と安定的な成長を踏まえての決断だった。鈴木がまず開発を命じたのは、オートバイ用のエンジンだった。1937年には試作機の開発に成功。さらに同年には自動車の試作も開始する。

このまま順調に進むと思われた自動車開発は、しかし時代の流れに拒まれた。日中戦争が勃発し、主要企業の工場は軍需製品の生産に使われることになる。鈴木式織機の工場も例外ではなく、戦争の拡大に伴って軍需品の生産に追われるようになった。さらに不幸は追い討ちをかける。1944年12月には東南海地震が発生。1945年に入ると空襲や艦砲射撃が激しくなり、浜松本社は大打撃を受けた。

■会社の復活を担ったモーターサイクル

 終戦後、国の繊維産業復興策などで活況を呈した鈴木式織機だったが、長引く戦後インフレや労働争議などで経営状態は悪化する。そのため1951年1月には会社の体制を一新。新たな再建策を図ることになった。

 その中心となった方策が、戦前にも企画していたオートバイの開発・生産だ。1952年1月に2ストローク・30ccエンジンを搭載する試作第1号のアトム号を製作。同年3月には36ccに排気量を上げた試作車が完成した。これがベースとなり、1952年4月に初の市販バイク、パワーフリー号を発売する。その後も精力的に新車を開発し、1953年3月には60ccエンジンを積むダイヤモンド・フリー号、1954年5月には4ストローク・90ccエンジンを搭載するコレダ号CO型をリリースした。

この時点で鈴木式織機は、生産規模と販売台数においてホンダやヤマハと肩を並べる3大バイクメーカーへと躍進する。1954年6月、社名を鈴木自動車工業に改め、名実ともに自動車メーカーへの脱皮を図った。

軽自動車のパイオニアとして大躍進

 2輪車の成功で資金を増やした鈴木自動車は、戦前からの念願だった4輪車の開発にとりかかる。1954年にVWビートル、シトロエン2CV、ロイトのFFミニカーを購入して研究。結果的にロイトを参考にした軽自動車枠の試作車、スズライトSFを完成させた。ロイトに執心したのは、2ストロークエンジンとフロントエンジン・フロントドライブを採用していたからだといわれている。2輪で培った2ストローク技術が生かせ、しかもFFならトラックやバンを製作する際に荷台が低くなるために有利、と判断したわけだ。

 1955年10月、試作車を改良した市販版のスズライトSFがデビューする。ボディタイプはセダン(SS)、ライトバン(SL)、ピックアップ(SP)を用意した。しかし当時は、一般市民に乗用車は高嶺の花だった。そのため1957年5月にはライトバンだけの生産に絞られる。ライトバンは1959年7月にモデルチェンジしてTL型へと進化。順調に販売成績を伸ばし続け、1961年3月には月産1000台の大台に達した。

 軽乗用車が普及し始めた1960年代初め、鈴木自動車は再び乗用車の開発に着手する。そして62年3月、TL型をベースにしたスズライト・フロンテTLAをリリースした。このTLAは軽自動車で初めてリアにトランクルームを設けた1台でもあった。その後もスズライト・フロンテはマイナーチェンジを続け、完成度を高めていく。しかし販売成績は、商用車に比べてそれほど伸びなかった。対策に頭を痛めた首脳陣は、1960年代後半に向けて重要な決断を下す。それは軽自動車の抜本的な改良、具体的にはFFからRRへの移行だった−−。