コスモAP 【1975】
マツダ渾身の高級スペシャルティカー
最も苦境に立たされたのは東洋工業だろう。
燃料消費の多いロータリーエンジンは、
市場から“悪いエンジン”のレッテルを貼られ、
結果的に販売台数は大きく下落する。
しかし開発陣はロータリー車の開発を諦めなかった──。
1973年10月6日に勃発した第4次中東戦争を背景に、国際石油各社は原油価格の引き上げと供給量の制限を実施する。その影響は当然、資源小国である日本にも波及し、原油価格は3カ月あまりで3.5倍にまで上昇した。そんな状況の中、日本の自動車メーカーは電力供給量の制限や猛烈なインフレ、ガソリン価格の高騰に苦心することになる。とくに東洋工業に対する風当たりは強く、「燃料消費の多いロータリーは悪いエンジン」というレッテルが貼られた。アメリカ市場でも同様の評判が広まり、結果的にマツダ車の販売台数は大幅に下落する。
一般的な企業ならこの時点で不採算の製品、東洋工業ならロータリーエンジンの生産を中止するところだろう。しかし、東洋工業のエンジニアはロータリーを諦めなかった。ロータリーはレシプロよりもロスが少なく効率がいい。入念な改良さえ施せば、燃費が良くてクリーンなエンジンに仕上がるはず──そんな信念を持っていたのだ。もちろん、せっかく苦労して実用化したロータリーエンジンをこのままお蔵入りにしてしまうのは納得できない、という意地もあったはずだ。
エンジニアは早速、ロータリーの改良に着手する。コアとなる考えは、薄い混合気で完全燃焼を達成する、いわゆる希薄燃焼だった。これを実現するためにエンジニアは、まずアペックスシールやコーナーシールなどのガスシールを改善する。さらにサーマルリアクター(排気ガス再燃焼装置)の反応性を見直し、2次エア供給の再調整も実施した。こうして完成した13B型(654cc×2ローター)と12A型(573cc×2ローター)は、昭和50年初期モデルに比べて約40%の燃費改善を達成したのだ。
ロータリーエンジンの改良には目処がついた。あとはロータリー車の悪いイメージを払拭しなければならない──。東洋工業はこの戦略として、まっさらな新車のリリースを画策する。その役割を担ったのは、ロータリーエンジン搭載車の第1号で、72年9月に生産を中止していたコスモの実質的な後継となるフラッグシップモデルだった。
75年10月、高級スペシャルティカーのコスモAPが発表される。APはアンチ・ポリューションの略で、低公害・低燃費を意味した。エンジンは最上級のリミテッドに13B型ユニットを搭載。ほかに12A型とVC型(1.8リッター・レシプロエンジン)搭載車を設定した。
後席を設定したクーペボディはロー&ワイドでロングノーズのスタイリングを特徴とする。センターピラーの中央に配置したサイドウィンドウのアレンジも斬新だった。インテリアは高級感あふれる作りが訴求点で、とりわけリミテッドに装備したウッド材のステアリングやシフトノブ、サイブレーキレバー、メーターパネルが注目を集めた。
コスモAPは広告展開にも力を入れる。とくにCMで流れた赤いボディが話題となり、「真っ赤なコスモ」が流行語となるほどだった。販売台数も絶好調で、75年には6960台、76年には5万8121台というスペシャルティカーとしては前代未聞の好成績を記録する。高級でスポーティなスタイリングや豪華な内装も人気の要因だったが、パワフルなのに燃費がいいロータリーエンジンの特性もユーザーの好評価を集めた。
コスモは77年7月にランドウトップを備えたLシリーズを追加し、魅力度をさらに高める。79年9月にはマイナーチェンジを実施。丸目4灯から角目2灯式のヘッドライトに改め、精悍なイメージをいっそう強調した。
コスモAPは当時のこのカテゴリーのクルマとしては異例に多い販売台数を記録し、東洋工業にとってはオイルショック後の救世主となった。同時にロータリーエンジンのイメージも大いに回復する。その意味でコスモAPは現在のマツダ、そしてロータリーエンジン車にとって、記念碑といえるモデルなのだ。