三菱WRC3 【1981~1987】

休止からの復活。そして勝利への努力

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1981年復活。マシンはランサーEXターボ

 厳しさを増す排出ガス規制への対応や、クルマをめぐる状況の変化もあり三菱の海外ラリー挑戦は、1977年で終止符が打たれた。復活は1981年。WRC(世界ラリー選手権)のうち、スピードが要求されるスプリントラリーに的を絞って出場する。マシンは、グループ4の規定にしたがって徹底的にチューンアップされた欧州仕様のランサーEXターボ(欧州名ランサー2000ターボ)。最高出力280psで駆動方式はFR。当時無敵を誇っていたフルタイム4WDのアウディ・クワトロや、MRレイアウトのルノー5ターボと比較するとオーソドックスな内容だったが、その分、信頼性に優れたマシンといえた。

 ランサーEXのラリー参戦は、完全なワークス体制ではなかった。三菱本体と、オーストリアのディストリビューター、デンツェル社との共同プロジェクトとして進められ、「チーム・ラリーアート」からの参戦というカタチをとった。復活緒戦となった1981年のアクロポリスラリーにはクーラング選手と、コーワン選手の2台体制で臨む。しかし2台ともトラブルに見舞われリタイア。続く1000湖ラリーでは完走こそ果たしたものの10位と12位に低迷。3台体制で戦った最終戦のRACラリーでも1台が9位に入るのがやっとで、残りの2台はリタイアする。モータースポーツにおける4年というブランクは、やはり大きなものがあった。

1982年、1000湖ラリーで3位入賞!

 チームは、1982年のシーズン突入前にマシンの徹底改良を行う。成果は1000湖ラリーに表れた。エントリーした2台のうち、アイリッカラ選手のマシンが、堂々の3位に入賞したのだ。1000湖ラリーは走行速度が速く、別名「フィンランド・グランプリ」とも呼ばれる高速ラリー。総走行距離1500kmの森林ダートコースのうち、大ジャンプに富む500kmのスペシャルステージが設定されている。

 1000湖ラリーで上位に入るためには、マシンに卓越した動力性能、操縦安定性とともに耐久性や優れたバランスを要求する。173台の出場マシン中、2台のアウディ・クワトロに続き3位に食い込んだランサーEXには賞賛が集まった。そして誰ともなく「2リッタークラスで最速のFRマシン」と呼ぶようにようになった。しかし、いくらFR最速とはいえ、4WDやMRレイアウトのスペシャルマシンと比較すると、ランサーEXは、総合力の面で見劣りするのは明らかだった。1982年シーズンは、その後のサンレモラリーで7位に食い込むのがやっと。最終戦のRACラリーでは参戦した2台ともリタイアに終わる。

グループBスタリオンの開発、しかし……

 1983年になると、WRCは一段と改造幅が広いグループBのマシンが主流となった。グループ4規格のランサーEXにもはや勝ち目はなかった。1983年の参戦は1000湖ラリーの1戦のみ。しかしこれもリタイアに終わる。

 勝利のためには、新たにグループB規格の4WDマシンを作り上げる必要があった。それに対する三菱の回答が1983年11月の東京モーターショーで発表された。「スタリオン4WDラリー」である。ネーミングどおりスポーツクーペのスタリオンを4WD化したグループBマシンだった。

 スタリオン4WDラリーは、グループBのホモロゲーション取得に必要な200台を生産。1984年秋からWRCに参戦すると発表された。しかし、マシンの開発は難航。スケジュールは遅れに遅れた。そんな中で1984年7月にフランスのイベント、ミレ・ピステにテスト参戦。プロトタイプのカテゴリーで見事に優勝を飾り、ポテンシャルの高さを示した。とはいえ、結局スタリオン4WDラリーのプロジェクトは完結することはなかった。グループBカテゴリーに対する危険性の指摘や、ホモロゲーションモデル200台をどう販売するのかの目処がたたず、プロジェクトそのものがキャンセルされてしまったのだ。三菱は、開発したマシンの挑戦場所を探した。1986年には第2回香港〜北京ラリーに参戦。2位に食い込む。

 1987年、三菱はマシンを改造範囲の少ないグループA仕様のスタリオン・ターボに(FR)スイッチする。戦う場に選んだのはFIA中近東ラリー選手権。ランビ選手がドライブするスタリオンは、速かった。カタールラリー、クウェートラリー、ヨルダンラリーで3連勝。1987年のグループAチャンピオンに輝いたのである。