首都高速の歴史1 第一期/1959-1973 【1959,1960,1961,1962,1963,1964,1965,1966,1967,1968,1969,1970,1971,1972,1973】

都心の交通戦争の解消を目指して

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トラックや乗用車の普及によって
交通渋滞が発生し始めた1950年代後半の東京。
この問題は今後さらに深刻化することが予想され、
時の政府はその対策に乗り出す。
1959年には首都高速道路公団を設立。
都市部の高速道路網が計画されることとなった。
都市部の交通渋滞の深刻化

 1955年に通産省が発表した「国民車構想」を契機に、日本人の自動車に対する関心は大きく高まっていた。自動車メーカー側もこれに呼応し、独自の技術を盛り込んだ大衆車を鋭意、開発し始める。“高嶺の花”だったクルマは、着実に国民に近づきつつあった。

 一方、大きな社会問題も発生した。クルマの増加に伴う交通渋滞の発生である。とくに東京都心部での渋滞は年々激しくなり、1958年のデータでは交通量の多いところで平均走行速度15〜25km/hにまで落ち込んでいた。自動車の保有台数が増える1960年代には、この数値がさらに悪化するのは明白だった。

 時の政府は、この渋滞問題の解決に乗り出す。従来の東京都市計画道路構想を見直し、自動車専用の都市高速道路を早急に建築することにしたのだ。実は都市高速道路の計画は1950年代初頭から模索されていた。予備調査も進められ、53年には「一般街路と分離、他の交通路と平面交叉しない自動車専用道路を計画すべき」との勧告が調査委員会から出される。これに対応して具体的な事業計画案を建設省と東京都が作成していた最中、交通渋滞が社会問題化したのである。

高速道路の建設に向けて

 1959年6月、都市高速道路の建設と管理を担う団体、“首都高速道路公団”が設立される。その任務は「東京都の区の存する区域及びその周辺の地域において、その通行について料金を徴収することができる自動車専用道路の新設、改築、維持、修繕その他の管理を総合的かつ効率的に行うこと等により自動車専用道路の整備を促進して交通の円滑化を図り、もって首都の機能の維持及び増進に資することを目的とする」(公団法1条)と明文化された。

 公団は早速、高速道路網の建築に着手する。昭和34年度(1959年)を初年度に昭和40年度(1965年)末までに工事を完了しなければならない基本路線は、環状6号線と都心部を結ぶ8本の放射線、そして1環状線からなる総延長約71kmの道路だった。首都高速1号から同8号に分けられた路線網は、後に建設される予定の高速道路との関連も考慮されていた。

 公団のスタッフが最も苦労したのは、建設用地の取得だった。日本で最も高い地価、しかも高人口密度の東京の土地を購入するのだから、その交渉は困難を極めた。当初は直線で建設する予定だった道路も一部で変更を余儀なくされ、その度に設計図も書き直される。さらにもうひとつ、スタッフの頭を悩ませる事態が発生した。1964年10月に開催する第18回オリンピック東京大会までに、主要幹線を完成させる命が国から発せられたのだ。土地の交渉に加えて完成時期の課題までも突きつけられた公団スタッフ。それでも都市高速建設に対する意欲は失われず、黙々と仕事をこなしていった。

急速に広がる高速道路網

 1962年12月、ついに最初の路線、首都高速1号線の中央区京橋三丁目〜港区海岸三丁目の4.5kmが開通する。さらに翌年12月には首都高速1号線の中央区日本橋本町二丁目〜中央区京橋三丁目と港区海岸三丁目〜品川区南大井三丁目、首都高速4号分岐線の中央区日本橋本石町一丁目〜中央区日本橋小網町が完成した。

 その後も路線延長は着々と進む。放射路線の端緒を見ると、2号線は1964年8月に中央区銀座八丁目〜港区東新橋一丁目、3号線は1964年9月に千代田区隼町〜千代田区霞ヶ関二丁目、8号線は1966年7月に中央区銀座一丁目地内、5号線は1967年3月に千代田区一ツ橋一丁目〜千代田区西神田三丁目が開通する。放射路線が交わる都心環状線も1967年7月に芝公園〜霞ヶ関が完成し、待望の環状高速道路が形成された。

 首都高速の建設が着々と進行される最中、公団にはまた別の業務が課せられる。将来的に交通量の大幅な増加が予想される地域、具体的には東京の城北・城東地域における高速道路網の構築だった。まず公団は神奈川県へと事業区域を拡大し、1968年7月には高速横浜羽田空港線の横浜市神奈川区東神奈川二丁目〜川崎市川崎区浅田四丁目が、同年11月には川崎市川崎区浅田四丁目〜大田区羽田旭町が完成した。

 首都高速道路網は1973年度の時点で総延長距離が100kmを突破して107.8kmを記録する。さらに新たな路線延長も計画され、首都高速の機能はいっそう拡大していくのであった。