スポーツS211 【1959,1960】

国産スポーツカーのパイオニア

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国産スポーツの第一歩となった
DC-3から7年が経過した1959年。
沈黙を破り、FRPのモダンなスタイリングを纏った
「ダットサン スポーツS211」が発売となった。
フェアレディを名乗る輸出専用モデルへと
短期間のうちにスライドするが、
そのスピリットは、最新Z-CARへ、
確かに受け継がれていく。
復興の中での、自家用車づくり

 第二次世界大戦(日本では太平洋戦争と言う)が、日本、ドイツ、イタリアなど枢軸国側の敗戦で終結してからおよそ10年を経た1950年代半ば、驚異的な復興を見せた日本の産業だったが、自動車産業に関してはいささかアンバランスな部分があった。それは、自動車の情緒的な部分のみがクローズアップされ、技術的な面の実際部分が伴わなかったことだ。俗に言う「意余って力足らず」(アイディアやイメージは十分だが、それを実現する能力がないこと)と言うところである。

 日本の本格的な自家用車の時代は、1955年に登場した「トヨペット クラウン」を以ってその始まりとする。当時、乗用車需要の大半を占めていたタクシー向けではなく、最初から純粋な自家用車向けのモデルとして設計されていたことで、それまでの頑丈一点張りのタクシー用車とは一線を画すものであった。

我々が、国産車として最初に接した自家用車向けのモデルが、当時の平均的な家庭の月収のおよそ100倍近い価格(クラウンは101万5000円)だったことは、その後の日本のモータリゼーションに大きな影響を与えることになる。おそらく、クラウンを生み出したトヨタ自動車は、彼らの持つ技術的な完成度の高さをアピールするために開発したのだろうが、マーケットの状況とはかけ離れた存在であったことも事実で、販売台数の伸び悩みに対処するため、クラウンとは別に、タクシー向けのモデルとして「マスター」を造らなければならなかったほどであった。その頃の日本のモータリゼーションはと言えば、あらゆる点で「クラウン」のレベルには到底達していなかったのである。

DC-3を経て、S211がデビュー

 1950年代半ばという時代に、4ドアセダンとして、ある程度完成した形で登場させた「クラウン」のトヨタに対して、ライバルの日産自動車は、乗用車ではなくスポーツカーというきわめて特殊なクルマを技術的な完成度のアピール手法として選んだ。それが、1952年の「ダットサン スポーツDC-3」に続いて、1959年に登場した「ダットサン スポーツS211」である。この2車とも、既存の「ダットサン セダン」および「ダットサン トラック」の主要コンポーネンツを流用していた。永年に渉る改良を受け、完成された小型乗用車であったダットサン セダンやダットサン トラックの部品を流用することは、信頼性の向上とサービス性の面でも大きな利点があった。

1952年に登場したダットサン スポーツDC-3は、1950年型の4ドアセダン「ダットサン スリフト」のシャシーに英国製スポーツカー風のボディを架装しただけのものだったが、当時の日産が思い描くスポーツカーを具体的な形としたものでもあった。モータリゼーションと言えば、自転車に簡単なエンジンを取り付けたモーターバイクや三輪トラックが主流だった中にあって、オープンボディのスポーツカーは、新鮮と言うよりも、むしろどちらかと言えば、異端的な存在だった。

価格も、少量生産ゆえに83万5000円と高価で、今日的に言えば、アストンマーティン ヴァンキッシュやベントレー コンチネンタルRなどに匹敵するものだ。ちなみに、ダットサン スポーツDC-3およびダットサン スポーツS211のスタイリング・デザインを手掛けたのは、日本では数少ない自動車デザイナーのひとり、大田祐一氏であった。当時の日本にも、「モノの分かった人」はいたのである。

スタイリッシュなFRPボディを採用

 1959年に登場したダットサンS211は、小型タクシー用として大成功を収めていた4ドアセダンのダットサン1000(211系)のエンジンやトランスミッション、ダットサン トラック(キャブライト)のシャシーを流用し、当時としては革新的な素材だったFRP(繊維強化プラスチック)で出来たボディを組み合せている。FRPは日東紡績製であった。1958年の第五回東京モーターショーで展示され、大きな注目を集めた。プロトタイプとしてショーに展示されたモデルのスタイルは、スチールのプレスで出来たものに比べ、FRP製ボディの強度を確保するため全体に丸みを持ったものとなった。

ウィンドウスクリーンは、丈夫な枠を持った一枚の板状のガラスで、サイドウィンドウを持たないロードスター型である。簡単なキャンバス製のソフトトップは付けられたが、サイドウィンドウやリアウィンドウはキャンバスのカーテンに貼られた透明プラスチック製で、あまり実用的ではなかった。ボディサイドの2トーンの塗り分けや後部フェンダーがわずかに残されているところなど、アメリカのシボレー・コルベットや英国のオースティン・ヒーレーなどの影響を見ることができる。当時、日本で外国製のスポーツカーと言えば、その2台は代表的な存在だったのだ。また、乗車定員が4人となっていたのも、当時の日本のモータリゼーションのレベルを現していた。スポーツカーと言えども、ファミリーユースを考えなければならなかったのである。

115km/hのトップスピードを披露

 搭載されるエンジンは「ダットサン1000」と同じ水冷直列4気筒OHVで排気量は988cc、圧縮比7.0とシングルキャブレターにより、最高出力34ps/4400rpm、最大トルク6.6kg-m/2400rpmを発揮した。ボディサイズは全長3985mm、全幅1455mm、全高1350mm、ホイールベース2220mm。車重は810kgと軽かったのは、新素材FRPの効用であった。トランスミッションはフロアシフトの4速で、後輪駆動、サスペンションは前後とも半楕円リーフスプリングで支えられたリジッドアクスルである。

ブレーキは4輪ドラムタイプ、タイヤは5.20-14-4プライのバイアスタイヤであった。トランスミッションとデファレンシャルのギア比は、標準型の4ドアセダンよりも低く設定され、最高速度はベースとなった211系セダンとトラックが95km/hだったのに対して、115km/hと発表されていた。その頃は、日本国中の何処を探しても高速道路などはなかったのだが、自動車で最高時速100km/hを超える性能を実現することは、当時の自動車技術者の見果てぬ夢のひとつであった。

輸出仕様のみのラインアップに

 FRP製のボディを持った「ダットサン スポーツS211」は、高価な価格設定にせざるを得なかったことと、オープンスポーツのコンセプト自体が一般ユーザーにはまだ理解されるには至らなかった。また、FRPボディの生産性が悪く、量産されることはなかった。およそ20台が造られた。「ダットサン スポーツS211」は、1960年1月からは「ダットサン スポーツSPL212」へとマイナーチェンジされ、ボディはスチール製となり、エンジンも若干パワーアップされた。同時に輸出専用モデルとなった。SPLのLは左ハンドルを示す。

COLUMN
日本橋の三越で開催されたダットサン展示会にプロト登場
1958年の東京モーターショーで最終生産型は発表(発売は1959年)となった。しかし、その前年(1957年)の11月、日本橋三越の屋上で行われたダットサン展示会で、FRPボディのオープン4シーターのプロトタイプが発表となっていた。夢のスポーツカーであるダットサン・スポーツは大きな話題を呼び、当初、3日間の予定だった展示会は、一週間も期間を延長した。しかし、このプロトは、110型セダンをベースにしており、搭載エンジンは25psの860ccサイドバルブ、最高速95km/hというものだった。市販型のS211はモーターショーの翌年に、京浜・京阪神地区限定で発売。価格は79万5000円。20台が作られた。