道路標識の歴史1 【1922】

モータリゼーションの発展と共に変化

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交通規制や目的地への案内など、
さまざまな情報を表示する道路標識。
モータリゼーションの発展と共に
変化してきたこの標識は、
だれもが見やすく、
理解しやすい表示を目指してきた。
その変遷をたどっていこう。
日本の道路標識の始まりは──

 道の案内や警戒、禁止、制限などを表示する道路標識。日本での標識の始まりを規定する基準は、人によってさまざまである。猟場までの目印として石や木の幹に印を刻んだ先土器時代を標識の始めとする人もいれば、戦国時代に織田信長が作らせたとされる榎の一里塚、江戸時代に建設された街道の石標などが始まりとする研究者もいる。

 ただし、現在のような道路標識、つまり自動車で走る際の警戒や案内を法制的に表示したのは、1922年(大正11年)11月に内務省令として制定された「道路警戒標及ビ道路方向標ニ関スル件」からだといわれている。このときは、警戒標識に相当する“道路警戒標”と案内標識としての“道路案内標”の2種類が作られた。警戒標は赤色の三角形の枠を上部に、右曲がりや左曲がり、学校、踏み切りなど6種を記した警戒内容を下部に配置する。案内標は白地に黒の文字で国道番号、方向を示す矢印、行き先地と距離などを記載していた。

 国産車が徐々に出始め、さらにトラックによる輸送が増加した昭和10年代に入ると、従来の道路標識では不足な部分が現れるようになる。そのため1942年(昭和17年)5月に内務省令によって「道路標識令」が制定された。このときは案内と警戒標識のほかに禁止、制限、指導の3種類の標識を追加する。禁止は右左折、制限は速度、指導は横断歩道などであった。標識の形状は案内が長方形、警戒が三角形、禁止と制限が円形、指導が正方形でまとめられる。色彩の使用方法も今日の国連標識に近いものだった。

占領下での標識

 第二次世界大戦の敗戦でGHQの占領下におかれていた1950年(昭和25年)3月、全面改正の「道路標識令」が総理府・建設省令として公布、施行される。標示内容は案内、警戒、禁止、指導、指示の5種類で、様式は原則として国連標識の図柄を取り入れた。当時の最大の特徴はすべての標識が日本語と英語の2つの言語で表記されていたことで、たとえば通行止めなら赤字の×の標示と“通行止”“ROAD CLOSED”と記載。一方通行も進路の矢印と“一方通行”“ONE WAY”と書き込まれていた。距離の表示も“km”に統一される。

 1960年(昭和35年)12月には新しい道路交通法の制定に伴い、総理府・建設省令で「道路標識・区画線及び道路標示に関する命令」が定められる。この時点で道路標識は案内、警戒、規制、指示の4種類(後に本標識と呼ばれる)に区分された。さらに1962年(昭和37年)1月には、案内標識の“方面及び方向”と“街路の名称”が追加される。いわゆる青山通りや甲州街道の単独標識が正式に道路脇に立てられたのは、この時からである。

モータリゼーション発展に伴う変化

 自動車の保有台数が大幅に伸び始めた1960年代は交通事情が急変し、交通事故などの問題が深刻化し始める。この対策として政府は、1963年(昭和38年)3月に道路標識の抜本的な改正を実施した。とくに一方通行や駐車禁止といった規制標識が一気に増え、その規制内容も細かくなる。さらにこの4カ月後には、緑地に白抜き文字の高速道路及び首都高速道路の案内標識が加わった。

 その後も交通環境の変化に伴い、道路標識は頻繁に追加変更されていく。1965年(昭和40年)8月には暴走族対策に起因した“自動二輪車二人乗り禁止”の標識、1967年(昭和42年)11月には“落石のおそれあり”などの警戒標識、1971年(昭和46年)11月には“通学路”や“横風注意”などの補助標識が追加された。

 時代を反映する道路標識だが、一貫して変わらないコンセプトもある。それは「だれもが見やすく、しかもすぐに理解できるようにデザインする」という考え方だ。これからの時代はVICS(道路交通情報システム)やAHS(安全走行システム、自動走行システム)、 UTMS(新交通管理システム)等の進歩が予想されるが、これらに対応した「見やすい」道路標識が今後ますます発展するだろう。