首都高速の歴史02 【1975〜1987】

拡大する高速ネットワークのハブに成長

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東京都心への一極依存への対応

 1962年12月に最初の路線、首都高速1号線の中央区京橋三丁目〜港区海岸三丁目の4.5kmが開通して以来、首都高速はモータリゼーションの発展とともに急速に路線を拡大していく。そして1975年前後からとくに問題となったのが、「東京都心地区の拡大」と「東京都心への一極依存」だった。都心は従来の23区から周辺地区などにも機能が拡大し、連続的な市街地の形成が進む。また政治・経済機構が都心に集まっているため、地方からのクルマの流入も増加の一途をたどっていた。

 この状況に対し、時の政府と省庁、首都高速道路公団は各都市間を結ぶ高速ネットワーク網や、都心過密地を迂回する交通体系の建設を計画する。そして中央環状線の一部や都市間高速道路と接続する放射線、さらに都市交通を迂回させ東京湾地区を相互に連絡する湾岸線などを重点的に推進する方針を打ち出した。

交通渋滞解消を目指した道路網整備

 公団の方針は順次、実行に移される。具体的には横浜港横断橋を含む横浜高速湾岸線(7.4km)や高速横浜羽田空港線の中区新山下〜同区本牧埠頭間(1.4km)、高速板橋戸田線の板橋区三園〜戸田市美女木間(3.7km)、高速湾岸線(第3期7.9km、第4期11.5km、第5期14.6km)、首都高速12号線(現11号台場線、5.0km)、首都高速板橋足立線(7.1km)、高速湾岸線と首都高速1号線を結ぶ八潮連絡路(0.9km)などの建設に着手した。

 従来路線の延長も引き続き取り組む。主要な工区は高速葛飾川口線、首都高速5号線の板橋区高島平〜同区三園間、高速足立三郷線、首都高速9号線、高速横浜羽田空港線の扇町〜新山下間、横浜高速2号線などで、いずれも高速ネットワーク作りには必要不可欠な路線だった。

 1980年代に入ると前述した工区が徐々に完成し、従来高速道路網と順次供用していくようになる。新開通路は首都高速6号線(2期、7.7km)、首都高速9号線(5.3km)、首都高速葛飾江戸川線(11.2km)、高速湾岸線1期(大井〜昭和島3.2km/13号地〜有明1.8km)、高速湾岸線2期(有明〜新木場3.4km/浦安〜東関東道6.9km)、高速湾岸分岐線(1.9km)、高速葛飾川口線(18.5km)、高速足立三郷線(7.5km)、高速横浜羽田空港線(2期、新山下〜横浜公園1.8km)の合計69.2km。この時点(1988年度末)で首都高速道路網は200.9kmにまで延長された。

日本列島の背骨形成に貢献

 注目の高速湾岸線は、東京港トンネルの着工以来、実に15年目にしての全線26kmの開通となる。これにより高速湾岸線は東関東自動車道と接続し、東京と千葉間の臨海部、さらに東京都心部と成田国際空港を結ぶルートとして重要な役割を担うようになった。

 またこの時期、常磐自動車道と直結する各路線も順次延長された。これは1985年3月から筑波研究学園都市で開催される国際科学技術博覧会に対応した工事で、首都高速6号線(小菅〜加平)、高速葛飾川口線(小菅地内)、高速足立三郷線などを建設する。この工事により、都心と常磐自動車道が1本につながった。

 さらに1987年には、着工以来16年もの歳月を要した高速葛飾川口線が供用開始となり、加えて首都高速葛飾江戸川線との供用も始まる。この時点で首都高速道路は東北自動車道とも直結し、結果的に北は青森から南は熊本まで、東北〜首都高速〜東名〜名神〜中国〜関門〜九州の各自動車道が結ぶ約2002kmの高速道路網が日本列島の背骨を貫くように形成されたのである。