タイヤの歴史/ブリヂストン06 【1995,1996,1997,1998,1999,2000,2001,2002,2003,2004,2005】
リコール問題を解決し力強く前進した2000年代
世界有数のタイヤメーカーとしてグローバル化を成し遂げたブリヂストン。中でも、1988年に完全子会社化したアメリカのファイアストンを中心とする北米事業(BFS=ブリヂストン/ファイアストン・インク)の復活は見事だった。経営陣の積極的な施策が実を結び1992年には年間黒字化を達成。1995年からは「インディ500マイルレース」に代表されるアメリカの人気レースシリーズ「インディシリーズ」参戦チームにタイヤを供給するまでになる。そして1996年からは優れた技術でライバルを圧倒。レースでチャンピオンを獲得し続けた。このインディシリーズの勝利により「高品質の米国ファイアストンブランド・カムバック!」のイメージは完全に定着。販売はさらに伸びた。
しかし、BFSは2000年代に入ると大きな問題に直面する。1999年6月、テキサス州ヒューストンでフォードのSUV、エクスプローラーを運転していたテレビ局の記者が、横転事故により死亡。2000年2月にテレビが「ファイアストン製タイヤを装着したエクスプローラーが横転事故を起こし、多くの死傷者が出ている。事故に共通する現象として、夏の暑い日、南部の州で高速道路を走行中にタイヤの表面がはがれる」と報じた。
事態を重くみた米国高速道路交通安全局(NHTSA)は、2000年5月、BFSが製造した4700万本のタイヤの欠陥調査を開始する。
BFSの対応は素早かった。事故の原因特定より前に、安全の確保とユーザーの不安を解消するのが先決と判断。2000年8月には、調査対象となったタイヤを自主回収することを発表したのだ。指摘されたタイヤについて、無償で別のタイヤに交換するとともに、他メーカーの製品に交換したユーザーに対しても、その費用を支払う対策を講じたのである。自主回収の発表以来、ブリヂストンは全社挙げての支援体制を実施。2000年11月には回収をほぼ完了する。
大きな問題が発覚した場合、どのような対応をとるかで企業の価値が問われる。結局、エクスプローラーの横転事故は、BFS独自の調査、そして第3者委員会の調査により最終的に「タイヤだけが原因」でないことが判明するが、問題発覚直後に、きちんとした対応を取ったことにより、ファイアストンをはじめとするブランドの毀損は最小限で免れた。
2002年、ブリヂストンは「ブランド推進室」を設置する。「PASSION for EXCELLENCE」をメッセージに掲げ、ブランドを再構築し、マネジメントしていく活動をスタートさせたのだ。メッセージには「最高の品質こそが、お客様の真の力となり、喜びと感動を与えることができる。ブリヂストンは、そのすべてに情熱を注いでいく」という意味が込められていた。
2004年には、ブリヂストンの高い技術力が航空機分野で認められる。米国ボーイング社と787用のタイヤを供給する契約を締結したのである。航空機用タイヤは究極の安全性が要求される商品だ。787に採用されたのはRRR(トリプルアール)と呼ぶ新開発品。安全性とともに、軽量化と耐摩耗性、経済性に優れた点が画期的だった。ちなみにRRRは787に先駆け、エアバス社のA380の納入承認取得にも成功していた。
2005年、乗用車用タイヤに新しい動きがあった。新ブランド、Playzの登場である。Playzはクルマやタイヤにあまり関心がないといわれる団塊ジュニア層にむけた新発想商品。「非対称形状」という新技術と、タイヤにとって世界初となる「らく」というコンセプトを採用していた。タイヤの魅力を、グリップ力に代表される旧来の機能的な価値感ではなく、人間本来の心地よさ、すなわち「らく」という尺度で語りかけた点が新しかった。しかもその実現のため「非対称形状」という先進技術を投入した点が目を引いた。Playzは発売と同時に、ユーザーの熱烈な共感を獲得。好調な販売セールスを上げるとともに、2005年度のグッドデザイン賞を獲得する。ブリヂストンの基幹商品の座を瞬く間に手に入れた。
高級サルーンの走りを快適に支えるレグノ、世界最高のスポーツポテンシャルを誇るポテンザ、「らく」をコンセプトに掲げるPlayz。そしてSUV用のデューラー。ブリヂストンは2000年代、4種の商品を柱に、すべてのジャンルのクルマ、そしてすべてのユーザーを満足させるタイヤ界のリーダー企業としてのポジショニングを明確にする。