日本車輸出の歴史03/ホンダ 【1959〜1997】

アメリカにこだわった国際商品



国際派メーカー、ホンダの素顔

 ホンダ(本田技研工業)は、日本の自動車メーカーのなかで最も早くから国際化を実践したメーカーである。2007年の実績(4輪車)を見ると全世界生産391万1000台のうち、国内生産は僅か133万1000台。海外生産は国内生産のほぼ倍の257万9000台に達している。ちなみに日本からの輸出台数は70万7000台となる。

 販売台数で見ても全世界販売台数376万7000台のうち、国内販売は62万1000台に過ぎず、海外での販売台数は314万5000台に達した。なかでもメキシコを含む北米市場での販売台数は177万6000台、中国市場でも42万8000台を販売している。

 ホンダの特徴は“現地・現物主義”。当初こそ日本からの輸出に頼っていたが、早い段階からアメリカをはじめとする海外に生産拠点を設け、販売に近い場所で、生産・部品の調達を積極的に行ってきた。日本の自動車メーカーで、アメリカ工場を持ったのはホンダがパイオニアである。

1959年アメリカン・ホンダ設立

 ホンダの海外戦略は、当初からアメリカ中心だった。アメリカに拠点を設けたのは1959年。2輪の販売のためロスアンジェルスに「アメリカン・ホンダ」を設立したことからスタートする。アメリカン・ホンダの設立メンバーのひとりだった川島喜八郎氏(元本田技研工業・副社長)によると、当初の海外進出は東南アジアを想定していたらしい。地理的にも日本と近く欧州メーカーと対等の闘いが出来ること、さらにオートバイそのものがいわゆる発展途上国に強い商品特性を持っていることからの判断だった。しかし本田宗一郎氏の懐刀だった藤沢武夫氏の判断は違った。

 藤沢は「消費経済はアメリカから始まっている。その総本山のアメリカで売れる商品は世界中で売れる。アメリカで売れない商品は、もともと国際的に評価されない」と主張。アメリカ市場攻略を第一目標とすることを指示したのだ。当時のホンダは1957年に2気筒250ccのドリームC70を発売、1958年にはスーパーカブを発売し波に乗っていた。しかしアメリカ進出はまだまだ無謀ともいえるチャレンジだった。とくにアメリカでオートバイは“ブラック・ジャケッツ”と呼ばれ、乱暴者が乗り回す反社会的な乗り物と認知されていたからなおさらだった。

スーパーカブで新たな風を吹かせる!

 アメリカに勇躍乗り込んだ川島たちを待っていたのは周囲の冷めた反応だった。しかも自信を持ってアメリカに持ち込んだドリーム号にトラブルが続出。その対応に追われることになる。ドリーム号は日本とはまったく違う広大なアメリカでの連続高速走行で各部が音を上げてしまったのだ。この状況を助けたのは“ついで”の気持ちで持っていったスーパーカブ(アメリカ名ホンダ・フィフティ)だった。

 排気量の小さなスーパーカブは従来のオートバイとは別イメージの新種の乗り物として認知され、スポーツ用品店やホビーショップ、スーパーマーケットなどがディーラーとして名乗りを上げるようになる。ホンダは当時7万ドルという大金を払い、一般誌の「ライフ」に1ページ広告を掲載することを決断。さらに販売を援護射撃した。このライフ誌に掲載した広告は“NICEST PEOPLE ON A HONDA(素晴らしき人、ホンダに乗る)”という有名な広告キャンペーンに発展し、さらにホンダのイメージは高まった。販売も完全に軌道に乗り、1960年代の半ばには販売台数100万台の大台に乗せる快挙を達成する。

初代シビックで掴んだ栄光と現地化の流れ

 2輪に続くのは、いよいよ4輪である。アメリカにおけるホンダの4輪販売は1970年にN600でスタートする。日本のN360のボディに600ccユニットを搭載したN600は軽快な走りでユーザーを魅了する。1971年にはZ600クーペもラインアップに加え1972年には新車登録2万台を早くも達成する。ホンダ4輪車は、VWビートルと同様に高感度な人々に愛される存在となったのだ。

 ホンダのブランドイメージを決定的にしたのが1973年にデビューしたシビックだった。経済性に優れ、キュートなスタイリングを持つシビックは圧倒的に支持された。とくに世界で初めて厳しい排出ガス規制をCVCCという独自技術で乗り切ったことが人気に拍車をかけた。シビックは1974年に4万1000台、1975年には10万2000台を販売し、一気にベストセラー・コンパクトカーの座を手に入れる。さらに1976年には充実した装備を持つ一段とスタイリッシュなアコードもラインアップに加わりホンダ人気は本物となった。

 4輪でも成功を勝ち取りつつあった頃、ホンダは早くも次ぎの戦略を準備する。アメリカ・オハイオへの工場進出である。当初は2輪工場としての進出だったが、1980年には4輪車の生産も表明。1982年にアコードの第1号車を送り出した。当時アメリカ生産について危惧する声も多かった。アメリカ製品のクオリティが必ずしも高くなかったからである。しかしホンダは地道に現地スタッフとの融合を図り、日本製とまったく変わらないクオリティを持つメイド・イン・USAのホンダ車を見事に完成させた。1990年にはアメリカで企画・生産したアコード・ワゴンを日本を含めて輸出し、ホンダがライバルと明らかに違うグローバルな存在であることを印象づけた。