日本車輸出の歴史02/トヨタ 【1951~1977】
失敗の教訓を生かした努力と実り
トヨタ自動車は、いまや自動車界のリーダーとして次世代モータリーゼーションを質的にも量的にも開拓する存在に成長した。しかし1950年代は、まだグローバルな存在ではなかった。世界に向けて、自らのプロダクトを磨き上げる途上のチャレンジャーだった。
トヨタの完成車輸出の歴史は、1951年にスタートする。仕向け地はアメリカの統治下にあった沖縄である。当初は販売が伸び悩む。当時の沖縄は本土と違い右側通行だった。本来は左ハンドルを販売するのが望ましい。しかしまだ左ハンドルの用意はなかった。そのため販売が苦戦したのだ。
輸出が軌道に乗ったのは1957年。クラウンがタクシー用として100台採用されて以降だ。タクシー用クラウンは1960年までに800台ほどが輸出された。タクシーに採用されたのは左ハンドルに改良されたモデルだった。トヨタは、沖縄への輸出から大きな教訓を得ることになる。それは“ユーザーニーズに適合した商品でないと売れない”という当たり前のことだった。輸出車は、その国の国情&使用パターンに合わせたリファインが必要であることを再認識したのである。この教訓は、後々トヨタの大きな武器となる。
沖縄に続いたのがブラジルだった。ブラジルは日本の約23倍もの広大な国土を持ち、豊富な天然資源に恵まれた有望な市場だった。1952年2月にBXトラック(左ハンドル仕様)100台の大型輸出契約がまとまり輸出を開始する。その後もトラックを中心にコンスタントに輸出を継続していった。しかしこの勢いが持続するかに見えた矢先、ブラジルにも問題が勃発する。1956年1月、時の政府が、自国の工業促進のため自動車の国産化方針を打ち出し、6月に「自動車国産化法令」を公布したのだ。このため完成車輸出、ノックダウン輸出ともに不可能となってしまった。しかしトヨタは撤退しなかった。
1958年1月に「トヨタ・ド・ブラジル」(ブラジル・トヨタ)を設立し、1959年4月にはランドクルーザー(現地名バンデランテ)の現地生産を開始したのだ。1960年11月には近代的な新工場を建設して国産化率97%を達成する。トヨタの対応が迅速だったのは、政府の国産化方針の動きをいち早く察知していたからである。1955年10月にトヨタ自販初となる海外駐在事務所をサンパウロに設置し、積極的な市場調査や販売・生産体制の準備を行っていた。このなかで政府の意向も理解していた。トヨタはブラジルでの経験で“海外でのビジネスは、相手国にメリットがあるカタチでないと持続しない”ことを悟った。クルマの場合、一方的な輸出ではなく互恵的な現地化こそが望まれていることを学習したのだ。
沖縄とブラジルでの経験は、アメリカ本土への輸出に生かされた。1950年代後半のアメリカは小型車ブームに湧いていた。小型車輸入台数は1950年の1万6000台が、1955年には5万2000台に拡大、1957年には20万台を突破した。この追い風を受け、トヨタはアメリカへの乗用車輸出を決断する。1957年8月25日、クラウン2台が対米輸出のサンプルとして横浜港から船積みされアメリカに向かった。この2台がアメリカ本土に陸揚げされた最初の国産乗用車である。1957年10月にはカリフォルニアに「トヨタ・モーターセールスUSA」(米国トヨタ)を自工、自販の折半出資で設立。1958年6月20日に輸出の第一陣となった30台のクラウンがロスアンゼルス港に到着したのを受け、7月末に本格営業を開始した。
販売は苦戦した。当時のクラウンは連続高速走行に耐えるクルマではなかった。そのためトラブルが頻発したからである。トヨタは沖縄での経験を生かし、クルマの改良を積極的に進めた。1960年6月にはRT20型コロナの輸出版ティアラをアメリカに投入する。ティアラは高速走行に備えエンジンを1.9Lとし各部を強化したモデルだった。しかしまだ性能は十分ではなかった。足回りを中心にトラブルが続発。ユーザーの不信感を募っただけでなく、トヨタ車の扱いそのものを中止するディーラーも数多く出現させてしまう。
この状況のなか、トヨタは重大な決断をした。アメリカ向け乗用車輸出の一時中止である。替わってブラジルなど南米市場で高い評価をすでに受けていたランドクルーザーを主力モデルに据え、販売網を含めた体制の再構築を図った。
乗用車の対米輸出を再開するのは1965年5月。アローラインのコロナ(RT43型)からである。RT43型はフリーウエイ走行に備え余裕ある1.9Lエンジンを搭載。イージードライブのニーズに応えてAT仕様も設定していた。しかもラジオやヒーターをはじめとする各種アクセサリーを標準装備しながら価格を1860ドルとリーズナブルだった。
基本メカニズムは日本市場向けのコロナと共通なものの、細部までアメリカの国情に合わせたリファインを加えたモデルで、なにより耐久性が抜群に上がっていた。トラブルはユーザーだけでなく、ディーラー、メーカーのトヨタを含めて、関係するすべてに不幸をもたらすという認識のもと、徹底したテストとクオリティアップに励んだ結果だった。勇気ある撤退が、大きな実りを生んだのである。
トヨタの対米輸出は1964年の3800台から、1965年には1万1200台と一気に拡大。その後も1966年2万6800台、1967年に4万700台と順調に台数を伸ばし、1977年には乗用車49万台、トラック8万台の販売を達成。ついにアメリカにおける輸入車ナンバーワン・メーカーにまで成長する。トヨタの成功は、魅力的なクルマ作りはもとより、ディーラーへの徹底サポート、サービス&パーツ供給網の整備など、アメリカ市場を徹底的に解析し、それに真摯に対応したからだった。失敗を後にどのように生かすかが、人の度量を図る鏡と言われるが、それは企業も同様。トヨタの輸出の足跡が日本の自動車界にもたらしたものは非常に大きい。