セリカGT-FOUR・RC 【1991】

海外では“サインツ・エディション”の名で販売。伝説の限定車

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日本車初のWRCダブルタイトル獲得した5代目セリカ

 5代目のST180型系セリカは、WRC(世界ラリー選手権)で大活躍する。1992年シーズンから実戦に投入され、エースドライバーのカルロス・サインツ選手が4勝を挙げ、年間チャンピオンに輝いた。ユハ・カンクネン選手にエースドライバーの座をスイッチした翌1993年は。ライバルのランチア、フォード、SUBARU、三菱を相手にチーム全体で全13戦中、5戦で優勝を飾る。その結果、念願のメイクスチャンピオンと、ドライバーズチャンピオン(カンクネン選手)のダブルタイトルを獲得した。日本メーカーでWRCダブルタイトル獲得はセリカが初だった。

 WRCの圧倒的な勝利を支えたのは、ST180型のデビューから2年後の1991年8月に登場した限定車「GT-FOUR・RC」だった。ちなみにRCはラリーコンペティションを意味していた。

GT-FOUR・RCは正統派のWRC戦略マシン

 当時のWRCはグループAマシンによる戦い。改造範囲は限定され、ボディ形状をはじめ、主要メカニズムは標準車から手を加えることはできなかった。そのためメーカーは、あらかじめラリーに勝てる要素を導入したモデルを市販。それをベースとすることで実戦でのさらなる速さを追求した。

 GT-FOUR・RCは、まさに正統派のラリー戦略マシンだった。スタイリングとエンジンをWRC用にあらかじめリファインしていたからだ。
 カタログでは「GT-FOUR・RCは、ベースモデルとしての要求に応えるために比類なき高性能を実現。新たに採用された水冷式インタークーラーをはじめ、ラリーでの過酷な走行状況を考慮したターボチャージャーの変更、そしてエンジン冷却性能を向上させるエアインテーク&エアアウトレットなどにより、235psのパワーを発揮する。すべては勝利のために、WRCタイトル獲得へ向け、セリカはまた加速する。」とアピールしていた。

最高出力235ps! ブリスターフェンダー採用

 具体的にGT-FOUR・RCの内容を説明しよう。まずスタイリングが“勝利のための造形”だった。ボンネットはエンジンを効果的に冷却するエアインテーク&アウトレット付きの専用デザイン。バンパーは冷却ダクトを追加した造形に変更される。前後のフェンダーも逞しい。ワイドタイヤ装着を考慮してブリスター状に成型。全幅は標準車比40mmワイドな1735mmに拡幅された。

 メカニズムも実戦仕様。2ℓ直4DOHC16Vターボは、ターボユニットを耐久性に優れたメタルタービンにすると同時にコンプレッサー入口径を拡大。さらにインタークーラーを水冷式とすることで吸入効率アップとシャープなアクセルレスポンスを追求する。エンジン本体は世界初のレーザー光を使用してシリンダーヘッドシート素材を密着させるレーザークラッドシートにより、バルブ回りの冷却性能をアップ。エンジンの連続高温・高負荷時でのポテンシャルを引き上げた。最高出力/トルクは235ps/6000rpm、31.0kg・m/4000rpmをマークした。

 シャシーは標準車と共通のビスカスカップリング式フルタイム4WDをベースに各部を強化。リアデファレンシャルにトルセンLSDを組み込み、後輪用ダンパーを微低速バルブ付きにグレードアップするなどロードホールディング性能を引き上げた。
 GT-FOUR・RCは5000台を生産し、日本では1800台が発売される。海外では当時のトヨタのWRCエースドライバーにちなんで、“カルロス・サインツ・リミテッドエディション”のネーミングで販売され、大人気を博した。ちなみに日本のRC購入ユーザーには、WRCを闘うTTE(トヨタ・チーム・ヨーロッパ)のオリジナルグッズがプレゼントされた。オリジナルグッズはラリースタッフが使用しているのと同仕様のオリジナルバッグと、カルロス・サインツのサインプレートだった。

サインツ選手のドライバーズチャンピオンに貢献

 最高出力が299psまでチューンされたラリー仕様のST185型は1992年シーズンの初戦モンテカルロ・ラリーから実戦に投入される。ニューマシンながら高いポテンシャルを示しサインツ選手が2位でフィニッシュ。チームは手応えを得る。
 初優勝は第4戦サファリ・ラリー。しかしポルトガル・ラリーとツールドコルスでは苦戦。第6戦アクロポリス・ラリーでは出場した3台のセリカすべてがリタイアしてしまう。ここでトヨタは早くもメイクスチャンピオンを諦め、サインツ選手のドライバーズチャンピオン獲得を優先する戦略に転換する。当初、参戦予定のなかったニュージランド・ラリーに出場。サインツ選手は2勝目を挙げた。

 マシンの改良も積極的に行う。その効果は徐々に現れ、サインツ選手は第10戦ラリー・オーストラリアで3位、第13戦カタルニア・ラリーで優勝を飾る。ドライバーズチャンピオンの行方は最終戦RACラリーの結果に絞られた。
 RACラリーではサインツがスタート直後から果敢に飛び出す展開、ライバルのオリオール選手、カンクネン選手は次々と脱落した。結果、優勝したサインツ選手が2度目のドライバーズチャンピオンを獲得する。ST185型は栄光のチャンピオンマシンの座に就く。

日本車初の栄冠。WRCダブルタイトルを堂々獲得

 翌1993年シーズンは、サインツ選手がトヨタを去り、替わってカンクネン選手とオリオール選手が移籍。マシンはカストロールがメインスポンサーに就きカラーリングを一新する。
 初戦のモンテカルロ・ラリーはオリオール選手が優勝。第2戦スウェディッシュはヨンソン選手のセリカが制した。第4戦のサファリ・ラリーはカンクネン選手の優勝を筆頭に4位までをセリカが独占する。まさにセリカの速さは圧倒的だった。
 しかしライバルも強かった。第5戦ツールドコルスではオリオール選手の2位が最上位。第6戦アクロポリス・ラリーではカンクネン選手、オリオール選手ともにリタイヤしてしまう。第7戦のアルゼンチン・ラリーはカンクネン選手が再び優勝するも、第8戦ニュージーランドは勝てず、ライバルのフォードに獲得ポイントで並ばれてしまった。

 だが1993年のセリカの実力は圧倒的だった。第9戦1000湖ラリーでカンクネン選手が激戦の末に優勝。さらに第10戦ラリー・オーストラリアにも勝利を収める。その結果、トヨタはフォードに26点の差をつけ、メイクスチャンピオンの座を確定する。メイクスチャンピオン獲得はWRC初参戦から22年目の栄光だった。
 メイクスチャンピオン獲得後もカンクネン選手は精力的にドライビングに没頭する。第11戦サンレモ・ラリーをパスし、得意の第12戦カタルニア・ラリーに挑戦。カンクネン選手は手堅く3位に入賞し、ドライバーズチャンピオンを確定させた。雪とアイスバーンで厳しいコースコンディションとなった最終RACラリーでもカンクネン選手は見事に優勝。有終の美を飾る。1993年、トヨタは念願のWRCダブルタイトルを獲得。ST185型セリカは最強マシンとして歴史にその名を刻んだ。

セリカの栄光を準備した初代GT-FOUR

 5代目セリカ(ST180型系)のWRC躍進を準備したのは4代目セリカ(ST160型系)に設定された初代GT-FOURだった。トヨタは1986年10月にWRC参戦ホモロゲーションモデルとなるフルタイム4WD仕様のGT-FOURをリリースし、マシン開発に本格着手した。WRCマシンは3S-GTE型エンジンを市販車の185psから295psにチューンアップ。トランスミッションにはXトラック社製6速MTを組み込んだ。

 ST165型GT-FOURは、1988年のツールド・コルスから参戦を開始する。強さが際立ったのは1990年シーズンだった。緒戦モンテカルロ・ラリーではランチアとの熾烈なバトルの末、サインツ選手が2位に入賞。第4戦・サファリ・ラリーではワルデガルド選手が優勝。さらに3位にエリクソン選手、4位にサインツ選手が入った。以後サインツ選手のドライビングが冴え、ツールド・コルスで2位、ニュージーランド・ラリーは優勝、アルゼンチン・ラリーは2位、1000湖ラリーでも優勝。サンレモ・ラリーで3位、そして仕上げの最終戦のRACラリーで優勝を飾る。この結果、サインツ選手はスペイン人初のドライバーズチャンピオンに輝いた。またセリカは日本車で初のドライバーズチャンピオンを支えたマシンとなった。

 1991年も快進撃は続いた。ドライバーはサインツ選手、シュバルツ選手、エリクソン選手の3名を基本に、サファリ・ラリーにはワルデガルド選手も起用する体制を敷く。
 緒戦のモンテカルロ・ラリーは、サインツ選手、ランチアのオリオール選手、フォードのデルクール選手が熾烈なトップ争いを繰り広げ、最終ステージでサインツ選手がデルクール選手を逆転、劇的な優勝を飾った。さらに第3戦ポルトガル・ラリー、第5戦ツールド・コルス、第7戦ニュージーランド・ラリー、第8戦アルゼンチン・ラリーを制し、サインツ選手はシリーズの山場を前に5勝を挙げ、セリカの圧倒的な速さを世界に見せつける。2年連続のドライバーズチャンピオンを確定させたかに見えたサインツ選手。だが好事魔多し、その後は勝利の女神に見放され、年間順位は2位。ランチアに移籍したカンクネン選手にチャンピオンを奪われた。