サバンナGT 【1971,1972,1973,1974,1975,1976,1977】

レースで栄冠を奪取したRX-3の市販版

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コスモスポーツ、ファミリア、ルーチェ、カペラに続き、
5つ目のロータリー搭載モデルとして
1971年9月にデビューしたサバンナ。
その最強版として1972年9月に登場したのが、
サバンナGTだ。10A型を搭載した標準モデルに対し、
GTは12A型(120ps)を搭載。クルマ好きの胸を熱くした。
ロータリーエンジンとの出会い

 第二次世界大戦前の1930年代初めから3輪トラックの生産を開始し、戦後は1949年ころから3輪トラックの生産を再開。1960年に至って、軽自動車「R360クーペ」で4輪乗用車の生産に参入。1962年にはオールアルミニウム製の水冷直列4気筒エンジンを搭載した軽自動車「キャロル」を発売するなど、常に自動車工業の最先端を走っていた東洋工業(現・マツダ)は、1964年には「ファミリア」を発売して本格的な小型車の分野へと進出した。日産、トヨタ、三菱、いすゞ、ホンダ、日野など、日本の小型車市場が最も活況を呈していた時代であった。

 小型乗用車の生産では後発となった東洋工業では、ライバルメーカーとは異なるセールスポイントを必要としていた。市場が真に必要としているクルマの台数は、メーカーが生産する台数より少なく、早晩クルマの飽和状態に陥ることが予測されていたからである。ライバルと同じことをしていたのでは、業績の発展は望めない。

こうした事情から、東洋工業はまったく新しい道を選ぶことになった。その大きな要素が、そのころ世界中の自動車メーカーが注目し始めていたロータリーエンジンだった。発展途上にあった日本の決して大きいとは言えない自動車メーカーではあったが、東洋工業はロータリーエンジンの研究開発とそのエンジンを搭載した乗用車の生産化を決定する。時に1960年10月であった。

コスモスポーツにロータリー初搭載

 東洋工業は、ロータリーエンジンのライセンスを持ち、当時すでにロータリーエンジン付きの小型車を発売していたドイツのNSU社およびロータリーエンジンの開発者フェリックス・ヴァンケル博士(1902〜1988)と技術提携を結び、本格的な研究開発を開始する。そして4年後の1964年の東京モーターショーに「コスモ」と名付けられた2シータースポーツを発表する。

それは、2ローター・ロータリーエンジンを搭載したモデルとしては世界初となるものだった。人々は、排気量わずかに491cc×2という小さな排気量のエンジンで、最高速度185km/hを実現する高性能と、「コスモ」の未来的なスタイルに驚嘆し、大きな注目を集めた。ロータリーエンジンの将来性に確信を持った東洋工業の技術陣は、ロータリーエンジン搭載車をメーカーの柱として、続々と新型車を登場させることになる。

 1968年7月の「ファミリア・ロータリークーペ」、1969年10月の「ルーチェ・ロータリークーペ」、1970年5月の「カペラ・ロータリー」という具合だ。そして、ロータリーエンジンの第一期黄金時代の究極的なモデルと言えるのが、1971年9月に登場した「サバンナ(Savanna)」である。

サバンナ誕生の時を迎える

「Savanna」とは、熱帯および亜熱帯地方に広がる大草原を意味している。2ドアクーペのほか、4ドアセダンも存在したが、ユーザーの多くは、そのスポーティーな走りのゆえに2ドアクーペを選んだ。ホイールベース2310㎜と「ファミリア・ロータリークーペ」に近い小ぶりなボディーに、10A型の排気量491cc×2ローターのエンジンを縦置きで搭載していた。最高出力105ps/7000rpm、最大トルク13.7kg-m/3500rpmで、この性能は優に2リッタークラスのスポーツカーを超えるものだった。

加えて、車両重量が875kgと軽かったから、最高速度は180km/h、0→400m加速16.4秒の高性能を可能としていた。データで比べる限り、これに匹敵するのは、「スカイラインGT-R」などだけであった。

走りを予感させるエクステリア

 スタイリングは当時の国産車としてはきわめて個性的なもので、メカニズムこそ「ファミリア・クーペ」を基本としたものだったが、フロントエンドやウィンドウ周り、さらにテールエンドまで、外板のデザインを全面的に変更し、まったく異なる雰囲気を演出していた。もっとも、この手法は「サバンナ」に限らず、車種を増やす手段として、他のメーカーでも行われていたことであったのだが。ただし、「サバンナ」の場合は比較的上手くイメージチェンジができた例だった。

一方、インテリアはロータリーエンジンの持つスポーティーなイメージを具体化したといえるもので、当時最新のランボルギーニ・ミウラなどのイタリアンエキゾチックカーのそれを想わせるものとなっていた。シートはヘッドレスト一体型のセミバケットタイプで、直立したダッシュボードとセンターコンソールとフロアトンネルから立ち上がるシフトレバー、3スポーク型のスポーツステアリングなどが、ドライバーの気持ちを高める。サイドウィンドウの上下やシートポジションの調節が、パワー作動でないのは時代性の表れであろう。

レースで活躍の12A仕様を投入

「サバンナ」は、デビュー当初から「スカイライン」のライバルとして、発展期に入った日本のモータースポーツフィールドで活躍することになった。レースのクラス別にステージ1からステージ3までの数々のスポーツキットが揃えられており、様々なレースに対応できた。また、1972年9月に「サバンナGT」が発売されたが、このモデルは輸出用と同様のひと回り大きな排気量(573cc×2)の12A型エンジンを搭載したモデルで、輸出名は「サバンナRX-3」となっていたものを国内発売したものだった。エンジン出力は120ps/6500pmへ、最大トルクは16.0kg-m/3500rpmへと向上。最高速度は確実に190km/hが可能となった。

この「サバンナGT」をベースに、レース用に徹底したチューンアップを施し、輸出モデルと同じ「サバンナRX-3」の名でレースに出場したのである。ドライバーは、片山義美、従野孝司、関谷正徳、寺田陽次郎、中嶋悟など錚々たるメンバーが揃っていた。中でも、1971年12月に富士スピードウェイで行われた富士ツーリストトロフィーレースでは、それまで圧倒的な速さで49連勝を重ねてきた「スカイラインGT-R」を、「サバンナRX-3」が初めて破り、スカイラインの50連勝を阻んだレースとして記憶される。これ以後も、「サバンナRX-3」と「スカイラインGT-R」は、サーキットのライバルとして、1970年代半ばまで、しのぎを削ることになる。

走りの良さで高人気モデルに

 ロータリーエンジンを搭載したクルマは、アメリカ市場でも好評を得て、東洋工業の輸出モデルの中核を成すまでになる(1970年代初頭には、月間輸出台数で1万台を超えていた)。「サバンナ」には、2ドアクーペのほか、1972年に登場のワゴン仕様「サバンナ・スポーツワゴン」や3速オートマチックトランスミッション搭載車をシリーズに加えるなど、モデルバリエーションの拡充を図る。

「サバンナ」は、1978年3月に「RX-7」に代わるまで、オイルショック似よる逆風の影響を受けながらも高い人気を保ち続けた。弛みないレース活動の賜物であった。

COLUMN
スカイライン神話に終止符を打ったモータースポーツでの活躍
ファミリア・ロータリークーペでスカイラインGT-Rに挑んでいたマツダ。しかし、スカイラインの優位は変わらず、すでにスカイラインは前人未到の49勝を手にしていた。その50勝がかかった1971年12月の「富士ツーリストトロフィー」。マツダは新たな刺客として、230psにチューンしたサバンナRX-3を送り込む。結果は、サバンナRX-3が総合優勝。スカGの神話が打ち砕かれた瞬間だった(スカイライン50勝は1972年3月)。初戦で鮮烈のデビューを飾ったサバンナRX-3は、その後もモータースポーツシーンを席巻する。1972年5月の「日本グランプリ」では、高橋国光がステアリングを握るスカイラインGT-Rを下し、総合優勝(スカイラインは総合4位)。スカイラインが一度もトップでコントロールラインを通過できなかったほどの圧勝だった。以降、サバンナRX-3は、1973年、1975年、1976年の日本グランプリを制した。1972年から4連勝という偉業を成し遂げ(1974年は雨で中止)、通算100勝の金字塔を樹立した。「富士グランドチャンピオン・シリーズ」では4度、チャンピオンに輝いている。