パブリカ 【1969.1970,1971,1972,1973,1974,1975,1976, 1977】
カローラのコンセプトを投入した2代目
パブリカがその役割を担っていた。
しかし1966年にカローラがデビューすると、
パブリカの主力大衆車としての地位は失われ、
販売台数も落ち込んでいく。
その対策としてトヨタ自工の首脳陣は、
パブリカに別の役割を担わせた−−。
1961年6月にデビューしたパブリカは、当時の通産省が推進した国民車構想のトヨタ流具現化であり、トヨタ自工にとっては大衆車モデルの役割を担う重要な一台だった。しかし、1966年10月にカローラがデビューして大ヒットすると、パブリカの主力大衆車としての地位は急速に薄れ始める。販売台数も下降の一途をたどった。
こうした状況に対しトヨタ自工は、パブリカの役割変更を画策する。得られた結論は、大衆車から「若者向けのエントリーカー」への転換だった。このテーマの下に、2代目パブリカの開発は急ピッチで進められる。
開発陣は早速、若者の嗜好に則したクルマの研究に着手する。そしてスタイリングはスポーティで、走りは俊敏。しかも価格が安いクルマを求めているという結論に達した。ここに開発陣は、カローラで好評を得たトータル性能の高さ、いわゆる“80点主義”を導入する。突出した先進技術はないものの、ユーザーが使いやすく、いつまでも乗っていたくなるようなエントリーカーの実現を目指したのだ。開発コストを抑える=価格を安くするという点でも、この主義の導入はプラスポイントだった。
1969年3月、2代目となるP30型パブリカが発表される。ボディ形状は従来と同様に2ドアセダンだったが、そのスタイリングを見てユーザーたちは驚いた。細部のデザインは異なるものの、ひと目で「カローラの弟分」と見て取れたからである。メッキグリルを配したフロントマスクは立派で、全体のフォルムもスタイリッシュにまとまっていた。簡素で機能的なルックスが特徴だった初代モデルとは大違い−−。こうした感想が大半を占める。
内装も初代から大幅にグレードアップしていた。とくにメーターと一体でデザインされたインパネや快適性が増したシートの着座感などが好評を得る。もちろん、スイッチ類の使いやすさや視認性も向上していた。
エンジンはカローラに積まれたK型を基本とする3K-B型1.1L・OHVと新開発の2K型1L・OHVがメイン機種となる。廉価仕様として従来型フラットツインの改良版の2U-C型800cc・OHVも残されたが、1972年には廃止された。
2代目はキャッチフレーズも凝っていた。大衆車を強調する先代の「1000ドルカー」から変わり、俊敏さや行動的なイメージを踏まえた「カモシカ」を冠したのである。具体的には、「カモシカ・ルック」とか「ハイウエイのカモシカ」などのコピーが広告で展開された。
2代目パブリカは当初の目的通り、エントリーカーとしてユーザーから受け入れられる。しかし、1970年代に入ると中心ユーザーの若者のスポーツ指向がさらに高まり始め、従来のパブリカだけでは対処しきれなくなっていた。
そこでトヨタ自工は、パブリカのシャシーをベースにクーペボディを被せたパーソナルカーを1973年4月に発表する。車名は“小さな星”のサブネームを付けて「パブリカ・スターレット」を名乗った。カローラ・レビン/スプリンター・トレノを彷彿させるスポーティなルックスを持つパブリカ・スターレットは、若者ユーザーから大注目を浴びる。さらに、エンジンや内外装の仕様を一定範囲内で選べる、同社のセリカのフルチョイス・システムを簡略したような“フリーチョイス・システム”の仕組みも好評を博した。
パブリカ・スターレットの人気は非常に高く、やがて本家のパブリカを凌ぐようになる。この動向を踏まえたトヨタ自工は、77年をもってパブリカの販売を中止。パブリカ・スターレットは78年2月にフルモデルチェンジを受け、ハッチバックボディのエントリーカーに一新した。車名も変更し、スターレットの単独ネームで販売する。長いあいだ親しまれたパブリカの車名は、この時点でついに消滅してしまったのである。