スケールモデル/タミヤ・ホンダF-1(RA273) 【1967~】

タミヤ初の精密F-1レーシングカー



F1マシンの模型化を目指して

 スロットレーシングカーの大ヒットや精緻な戦車模型のリリースなどで、一躍業界の注目メーカーに成長した1960年代中盤の田宮模型。さらなる躍進を目指した同社は、当時日本ではまだマイナーだったF-1マシンの模型化を計画する。F-1に目をつけたのは、自動車好きの田宮俊作。彼は65年シーズンの最終戦メキシコGPで優勝したホンダF-1(RA272型)の快挙に感銘を受け、以来「ホンダF-1を模型にしたい」と思い続けていた。

 しかし、F-1の模型化には危険性もあった。日本でのF-1の認知度が非常に低かったからである。RA272が優勝したときも新聞の三面記事で小さく報じられた程度。世間を騒がすほどの“大事件”にはならなかった。ホンダF-1を模型にしても、売れる保証はまったくない……。

 ここで田宮に決断を促す助言が与えられる。イギリスへの出張の際、同国の代理店であるRIKO社の社長から「自信を持って作るべきだ」と勧められたのだ。欧州ではF-1は誰もが知っているし、ホンダの偉大さも理解している。欧州では絶対に売れる−−。この言葉に勇気づけられた田宮はホンダF-1の模型化を決断し、その夜に早速国際電話を入れて本田技研の承諾を得るように手配した。

いかにして実物を再現するか−−

 田宮は帰国後にさっそく、ホンダF-1模型の具体的な企画に着手する。本田技研に模型化への協力を依頼し、こころよくOKの返事をもらった。
 作るからには形だけでなくすべてを本物そっくりに−−。いよいよ田宮模型のスタッフによる入念な取材が始まる。実物のF-1マシンであるRA273はモナコGPに向けて羽田空港の倉庫に入っていたため、実物の撮影と開発者によるレクチャーはその場で行われた。

 十分に時間のとれた取材ではなかったものの、設計者の岡部和生は可能な限りRA273を再現し、図面に起こす。木型ができた段階で本田技研の朝霞研究所のエンジニアにチェックしてもらい、指摘された箇所を何度も改良した。

ディテールにまで徹底的にこだわって開発

 田宮と設計者のこだわりは、タイヤにも及ぶ。当時の自動車模型のタイヤは表面がツルツルしたものが主流で、トレッドパターンを刻むなど技術的にもコスト的にも実現不可能だと思われていた。しかし田宮模型は“本物”に近づけるために、果敢に溝の刻印にチャレンジする。苦労の末、完成したのは電気鋳造法を応用した成形で、見事に本物そっくりの中空ラバータイヤが出来上がった。さらにタイヤにリアリティを持たすため、サイドには“GOOD YEAR”のロゴを浮き彫りで入れる。

 ロゴの使用に関してはグッドイヤー本社に了承を求め、許可を得たのだが、本社のスタッフからは「事前にことわりを入れてきたのは、あなたのところが初めてです」と言われたそうだ。当時はメーカーに了承を取らず、勝手にコピーしてしまうことがまかり通っていたのである。この田宮模型の真摯な姿勢は、その後の模型開発でも生きることになった。

世界一のトイフェアに出展

 製作開始から約8カ月、ついに1/12スケールのホンダF1が完成する。その構造は実車のRA273にほぼ則したもので、ホイールバローン型モノコックにV12型エンジン、前後ダブルウイッシュボーン式サスなどを見事に再現していた。さらに金属のコイルスプリングや前輪と連動するラック&ピニオン式ステアリングなども備え、ビス止めによるノーズカウリングは脱着が可能だった。

 記念すべきホンダF-1模型の第1号は、本田技研の社長である本田宗一郎に贈呈される。これを丹念に見た宗一郎は「日本の模型屋も、ここまでやるようになったか」と感心したそうだ。またホンダF-1模型は1967年11月11日に発売を開始し、第1回目の生産ロットは1万台だったが、1200円と高価だったにもかかわらず、たちまち売り切れ状態となった。

 翌1968年2月、田宮はF-1模型を海外の場でも披露する。会場はドイツのニュルンベルクで開催され、世界最大のホビーショーといわれる「インターナショナル・トイフェア」のスタンドだった。目の肥えた模型ファンがホンダF-1を見てどんな反応を示すか……。田宮模型スタッフのそんな不安は、開場するとすぐに解消される。タミヤ・スタンドの前には人垣ができ、こぞってF1模型のハイクオリティに感嘆したのだ。「うちでおたくの製品を扱いたい」という代理店も相次いで現れる。またトイフェアを取り上げたドイツの新聞では、写真入りでホンダF-1模型が紹介された。

 トイフェアでの成功を機に、田宮模型は海外の模型雑誌に頻繁に取り上げられ、世界中のファンに認知されるようになる。田宮が悩みに悩んだ末に製作に乗り出したホンダF-1模型は、結果的に世界の“TAMIYA”の起点になったのだ。
(文中・敬称略)