600ムルティプラ 【1956,1957,1958,1959,1960,1961,1962,1963,1964,1965,1966,1967】

常識にとらわれない設計。愛すべきマルチパーパス車



戦後設計の新型モデルへの取り組み

 第2次世界大戦が終結した後の1940年代後半、イタリア最大の自動車メーカーであるフィアット社は、戦前に開発したクルマ、具体的には500や1100の改良型を販売して売上げを伸ばしていた。一方で開発現場では、戦後に向けた全面新設計の新型車の企画に邁進する。主導したのはチーフエンジニアのダンテ・ジアコーサで、最初に取りかかったのは500と1100の後継を担うニューモデルの開発であった。

 1100の後継車は“ティーポ101”のプロジェクト名で開発が進められ、1950年には「1400」の車名で市場デビューを果たす。フィアット初のモノコックボディ構造にアルミ製ヘッドを組み込む1395cc直列4気筒OHVエンジン(44hp)を搭載した新世代の小型車は、4ドアセダンのほかに2ドアカブリオレも設定していた。

500の後継車600、駆動方式の悩み

 一方、500の後継となる大衆車「600」は“ティーポ100”のプロジェクト名で開発が始動する。しかし、その進行は予想外に遅れた。最大の要因は駆動レイアウトの選択。500で採用していたFR(フロントエンジン・リアドライブ)方式では大衆車として最良のパッケージングは実現できないと、ジアコーサは考えたのだ。当初はFF(フロントエンジン・フロントドライブ)方式を検討したジアコーサだったが、肝心の等速ジョイントの耐久性および信頼性を確保することがままならず、またコストの面でも高くつくことが判明した。

 方針転換を余儀なくされたジアコーサは、次なる方策としてRR(リアエンジン・リアドライブ)の駆動レイアウトを選択する。シンプルな機構で、かつ動力システム自体がコンパクトにまとまるRR方式を導入することで、プロジェクトは一気に進むかに見えた。しかし、ここでまた問題が発生した。首脳陣から、RR方式では満足のいくワゴンボディが造れないのではないかという懸念が示されたのだ。既存の500では、セダンタイプよりも実用性に優れるワゴンの「ジャルディニエラ」のほうが販売を伸ばしていた。人気のあるボディタイプを設定できないとあっては、新世代大衆車600の売上げが低迷する危険性がある。首脳陣はそんな懸念を抱いたのである。

RR方式でのワゴンボディの開発

 RR方式を採用したうえで、コンパクトなボディと広い室内空間を融合させた大衆車ワゴンを創出する−−。この難題に対し、ジアコーサ率いる開発チームは「100ファミリアーレ」と呼称する解決策を打ち出した。
 基本骨格については、開発中のRRセダン用シャシーをベースに、ルーフをボディ前端まで伸ばしたキャブオーバータイプのボディデザインを構築する。ホイールベースはセダンと同寸の2000mmに設定。一方、フロントシートを前車軸の上部にまで前進させて、最大3列式シートのキャビンレイアウトを実現した。スタイリング自体も独創性あふれるもので、丸型2灯式ヘッドランプと縦桟基調のグリルを配した個性的なフロントマスクに6タイプの開放的なサイドウィンドウ、大きな開口面積を持つフロント後ヒンジ式/リア前ヒンジ式のドア、膨らみを持たせた前後フェンダー部、傾斜をつけたリアピラー、ボディの上部と下部で塗り分けたツートンのボディカラーなどを採用する。また、フロント部のボディパネルを守るために大きめのオーバーライダーを装着した。

 前席の移動に伴い、フロントサスペンションはセダンのウィッシュボーン/横置きルーフからダブルウィッシュボーン/コイル+アンチロールバーに設計変更する。スイングアクスル/コイル形式のリアサスペンションのセッティングも見直した。ステアリング機構はセダンのウォーム&セグメント式から“くの字”状のウォーム&ローラー式に切り替える。また、フロントセクションの廃止に伴って燃料タンクはリア部に移設し、容量もセダンの27Lから29Lへと拡大。スペアタイヤは助手席前に、フロントスクリーンウォッシャー用のタンクは足下の左端に設置する。ヒーター機構にも専用品を導入した。

 リアに搭載するエンジンはセダンの600と基本的に共通で、633cc直列4気筒OHV(22hp)を採用する。トランスミッションには2〜4速にコンスタントメッシュを組み込んだ4速MTを装備。ファイナルドライブ・レシオは7:45(セダンは8:43)にセットする。また、シューズには3.5J×12ホイール+5.20-12タイヤを、ブレーキには前後ともに油圧式ドラムを組み込んだ。

多用途を意味する「ムルティプラ」の車名でデビュー

 ティーポ100として進められた500の後継モデルとなる大衆車の開発プロジェクトは、1955年開催のジュネーブ・ショーにおいて正式発表される。「600」の車名を冠したセダンタイプの新世代RR大衆車が、ワールドプレミアを飾ったのだ。全長3215×全幅1380×全高1405mmのコンパクトなボディに近代的なスタイリング、大人4名がきちっと乗車できるキャビン空間、最高速度95km/h以上というパフォーマンスを有した渾身作の600は、たちまち人気モデルに成長した。

 翌1956年になると、ブラッセルズ・ショーにおいて100ファミリアーレの市販型が「600ムルティプラ」の車名で市場デビューを果たす。ムルティプラは“Multi Place(多用途)”の意味で、その名の通りマルチパーパスビークルとしてのキャラクターを備えていた。その象徴が、多彩なシートアレンジだった。ムルティプラは、6名乗車の3列式シート仕様と4/5名乗車の2列式シート仕様を設定。3列式シート仕様は独立タイプの2/3列目シートに、2列式シート仕様はベンチ式の後席にフォールドダウン機構を内蔵する。また、2列式シート仕様には全席のシートバックが倒せるフルフラット機構も装備した。性能面では、最高速度90km/h、最大積載量350kgを実現。燃費性能を含む経済性の高さも訴求点で、これらの特性を重視した顧客はムルティプラをビジネスユースとしても大いに活用する。また、ムルティプラにはタクシー仕様も用意され、最後部に2名乗車のベンチシートを、フロントシートバックにスペアシートを組み込んでいた。

エンジン排気量を拡大した600Dシリーズに移行

 1960年モデルになるとムルティプラおよびセダンのマイナーチェンジが実施され、新シリーズの「600D」に切り替わる。最大のトピックはエンジンの換装で、新たに767cc直列4気筒OHVユニット(32hp)を搭載。出力の向上に伴い、足回りも強化した。また、ムルティプラのファイナルドライブ・レシオは8:43(セダンは8:39)の設定となる。性能面では、最高速度が105km/h(セダンは110km/h)、最大積載量が400kgにまで引き上げられた。内外装の一部も変更され、サイドマーカーの設置やリアコンビネーションランプの大型化、メーターデザインのリファインなどが行われた。

個性を活かしたカスタムカーの出現

 ムルティプラはユニークなカスタムカーを輩出した。代表格が、カロッツェリア・ギアが手がけたオープン仕様の「ムルティプラ・ジョリー(Jolly)」だ。オープンボディ化にあたっては、ルーパネルおよびリアウィンドウ、フロント部を除く各ピラー、前後ドアなどの部材を省略。そのうえで、6点支柱の簡易トップやキャビンまわりのパイプフレーム、対面配置の2/3列シートなどを組み込む。いわゆるリゾート向けのプロムナードカーに仕立てられたオープン仕様のムルティプラは、イタリア南部の観光地の送迎車として、さらには各地で催されたイベントの移動車(とくに1961年開催のトリノ国際博覧会で使用されたタクシー車両が有名)として、大いに活躍した。

 600Dに移行した後も細かな改良を重ねて熟成度を高めていったムルティプラ。1964年5月には600Dセダンの実質的な後継モデルとなるティーポ100Gの「850」がデビューし、翌1965年にはキャブオーバー型ワゴンの「850ファミリアーレ(Familiare)」が登場するものの、ベーシックカーとしての600Dシリーズの価値は依然として高く、とくにムルティプラはその個性的なルックスと経済性の高さで支持を集めていたため、生産は継続された。しかし、1960年代終盤に差しかかるとイタリア国内の道路整備の進捗に合わせた巡航速度のアップ、さらには衝突安全性の確保といった課題に直面。最終的にフィアットは、1967年をもってムルティプラの製造中止を決行した。総生産台数は13万台あまり。マルチパーパスビークルの先駆けとなる革新車としては、十二分な普及を果たしたのである。