マツダ・デザイン01 【1946〜1963】

先進のデザインで魅了した戦後のマツダ3/4輪車

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インダストリアルデザイナー、小杉二郎を起用

 戦後の東洋工業(現マツダ)の復活は、1946年から本格化した。戦前に開発した3輪トラックのGA型の生産を再開し、間もなく月産100台を達成する。1951年12月になると松田重次郎が会長に退き、息子の恒次が取締役社長に就任。恒次はトラックの開発を担当した技術者で、大のクルマ好き。結果として、東洋工業のクルマ開発にさらに拍車がかかることとなった。一方で東洋工業ではクルマの造形にもいち早く注目し、戦後間もなくにデザイン事務所を開設していたインダストリアルデザイナーの小杉二郎を1948年から招聘して同社の新型車のデザインを任せる戦略を打ち出す。小杉もその期待に応えるよう、懸命に線を引いた。

三角形の風防を基本形態としたマツダ3輪トラック

 東洋工業と小杉のタッグは、1954年10月に登場した新しい小型3輪トラックのマツダCHTA型/CLY型/GDZA型によってひとつの花を咲かせる。シャシーの前端を三角形で構成し、それに合わせて風防デザインもアレンジしたそのフロントマスクは、従来の3輪トラックにはない個性を創出していた。この基本形態は、以後のマツダ車にも発展しながら継続されていった。

 東洋工業は3輪トラックのHBR型やT600、四輪トラックのDMA型“ロンパー”など、数々の斬新な商用車をリリースした後、軽自動車カテゴリーにも本格的に進出。1959年5月には軽3輪トラックのマツダK360を発売した。注目はエンジンで、当時主流だった2サイクルを用いず、新開発の4サイクル(BA型356cc空冷2気筒OHV)を採用する。デザインに関しては、基本形態の三角形マスクを流麗なカーブでアレンジしながら、低く抑えた車高に広めの居住空間を実現。これはエンジン搭載位置を座席と荷台の間に設定したことから可能となるレイアウトだった。

乗用車市場への進出は軽クーペから

 3輪トラックの開発を推し進める一方、東洋工業の開発陣は乗用車の企画にも注力する。そして1960年5月になって、同社初の軽乗用車となるマツダR360クーペを発売した。
 マツダR360クーペは、当時の東洋工業の技術の推移が結集されていた。搭載エンジンは量産軽乗用車初の4サイクルユニット(UA型356cc空冷2気筒OHV)で、ロッカーケース/オイルパン/クラッチハウジング/トランスアクスルケース/冷却ファンの素材にはマグネシウム合金を、シリンダーヘッド/クランクケース/タイミングギアケースにはアルミ合金を奢る。また、潤滑系統にはトロコイド・ポンプによるドライサンプ式を採用した。

 組み合わせるトランスミッションは4速MT(KRBB型)のほかに、トルクコンバーターを装着した“マツダ・トルクドライブ”2速AT(KRBC型)を設定。シャシーは前後サスペンションにトーションラバーを組み込んだ四輪独立懸架方式で、ブレーキにはアメリカのAL-FIN社と技術提携して作り上げたアルフィン型油圧ドラムブレーキを装備する。2+2キャビンを内包したボディは軽量なモノコック式。全高を1290mmと低く抑え、スタイリッシュで機能的なクーペフォルムを構築した。

本格的な軽ファミリーカーの登場

 R360のデビュー後も、東洋工業は着実に軽乗用車の進化を推し進めていく。1962年2月には“歓びの歌”という名を持つ新型軽乗用車のマツダ・キャロルをリリースした。
 軽自動車初の水冷エンジン(DA型358cc直4OHV)に5点支持のクランクシャフトや電磁式フューエルポンプなど、スポーツカー並の凝ったメカニズムを採用していたキャロルは、デザイン面でも注目を集める。車両レイアウトは、このクラスとしては非常に珍しい3ボックスで構成。同時にルーフ後端を大胆に切り落とした“クリフカット”デザインを採用し、後席ヘッドクリアランスとエンジンフード開口面積の確保を成し遂げた。ちなみにクリフカットデザインは、アメリカ車のマーキュリー・パークレーンや英国車のフォード・アングリアなどが1950年代終盤に先鞭をつけた造形であったが、日本では東洋工業がいち早く採り入れる。戦後間もなくからインダストリアルデザイナーを招き、車両デザインに力を入れていた同社だけに、当時の最新トレンドに敏感に反応したわけだ。

 新世代の軽乗用車として市場から認知されたマツダ・キャロルは、1962年10月に小型車版のキャロル600(RA型586cc)を追加。1963年9月には軽乗用車初となる4ドアモデルのキャロル360・4ドアを設定し、徐々にユーザーの裾野を広げていく。同時にツートンカラーの採用やフロントマスクのリファインなど、デザイン面での刷新も忘れなかった。

 斬新なスタイリングを有する商用車と軽乗用車によって、総合自動車メーカーとしての足場を固めていった1960年代初頭までの東洋工業。凝ったデザインとメカニズムで勝負するその姿勢は、1960年代中盤以降になるとさらなる輝きを放つこととなった。