レガシィRSタイプRA 【1989,1990,1991,1992,1993】

STIがチューニングを手がけた競技用ベースモデル

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モータースポーツ向けのレガシィを企画

 レガシィは富士重工業の新しい中核車として、1989年1月に発表、翌2月に発売された。数あるレガシィのラインアップのなかでスバリストたちが注目したのは、最強グレードに据えられたセダンの「RS」だった。RSは220psの強力パワーを発生するEJ20-T型1994cc水平対向4気筒DOHC16Vインタークーラーターボ・ユニットを搭載し、トランスミッションには専用ギア比の5速MTを、駆動機構にはビスカスLSD付センターデフ式4WDをセットする。さらに、専用チューニングの足回りや4輪ベンチレーテッドディスクブレーキ、シックなデザインながら確実に効果を発揮するエアロパーツ群、MOMO製本革巻きステアリング、フロントスポーツシートを身にまとったRSは、大人の走り好きを中心に支持を集めた。

 一方で富士重工業の現場では、レガシィでのモータースポーツへの挑戦、具体的にはラリー・フィールドへの参戦を計画し、そのためのコンペティションマシンを鋭意開発していく。主導したのは、同社のモータースポーツ活動を統括する子会社のスバルテクニカインターナショナル(STI)だった。STIはまず手始めにレガシィRSによるFIA公認の10万kmスピードトライアルを企画し、1989年1月には米国アリゾナ・テストセンターにおいて2つの世界記録(10万km平均速度/5万マイル平均速度)と13の国際記録(カテゴリーA クラス7)を樹立する。その勢いをかって、レガシィRSをベースとするコンペティションマシンの開発を推し進めていった。

“Handcrafted tuning by STI”を謳って登場

 1989年9月になると、ます競技参加用モデルのレガシィ「RS typeR」が市場デビューを果たす。RSの内装の装備類を簡略化し、同時にダンパーおよびコイルスプリング、ブッシュ類などを強化したRS typeRは、主に国内ラリーに向けたベーシックグレードという位置づけだった。そしてRS typeRの登場から2カ月ほどが経過した11月、“Handcrafted tuning by STI”を謳う至高のコンペティションモデルが発表される。グレード名は「RS typeRA」。RAは記録(10万kmスピードトライアル)への試み=Record Attemptに由来していた。

 STI自らが「すべての虚飾を排し、純粋にポテンシャルの高度化を追求した」というRS typeRAのチューンアップ内容は、緻密かつ多岐に渡っていた。まずEJ20-T型エンジンについては、STIのスペシャリストによる吸排気ポートの段差修正研磨と入念な回転系バランス取りを実施してレスポンスの向上を達成。さらに、鍛造ピストンや高耐圧コンロッドメタルを組み込んで、さらなる出力アップに対応できる仕様とする。チューンアップの証として、インタークーラーケースおよびカムカバーにはゴールドアルマイト処理を施した。また、ラジエターファンにはデュアルタイプを採用し、冷却効率をいっそう高める。

 操舵機構に関しては15(直進時)〜13(最大転舵時)のバリアブルギアレシオを採用した専用のエンジン回転数感応型パワーステアリングをセット。フル転舵時のクイックな操作性と高速走行時における安定性の両立を図った。懸架機構についても、入念なリファインが行われる。ラフロードでのハードなスポーツ走行を想定したサスペンションは、ベース車のRS比でスプーリングレートが前2.5kg/mm→3.20kg/mm、後1.9kg/mm→2.85kg/mmへ、ダンパー減衰力(伸側/圧側0.3m/s時)が前120/30kgf→190/140kgf、後84/25kgf→130/85kgfへと強化。同時に、各ブッシュ類の硬度もアップさせる。足元は205/60R15 89Hタイヤ+6JJ×15アルミホイールを装着した。ほかにも、ナイトステージで真価を発揮する100/80W強化ハロゲンヘッドライトや操作性に優れるMOMO製“COBRA”本革巻き3本スポークステアリングといったアイテムを組み込んでいた。

Bタイプではトランスミッションをクロスレシオ化

 レガシィRS typeRAはユーザーが限られるコンペティションモデルであり、STIとしても「セールスより技術主体」と考えていたため、当初は限定100台での販売を予定していた。しかし、国内外のラリーストがそのハイポテンシャルを高く評価し、それに付随して受注も予想以上の伸びを示す。結果として富士重工業およびSTIは、継続的な生産(月産20台)および販売を決断した。

 1990年5月になるとレガシィ・シリーズのマイナーチェンジが行われ、通称Bタイプに移行する。RS typeRAもBタイプのRSにベース車を切り替えるが、同時にメカニズムの一部改良も敢行した。最大の変更点は、トランスミッションのクロスレシオ化だ。国内ラリーのSSでの走行を前提にセッティングした5速MTは、1速を従来の3.545から3.454に、2速を2.111から2.333に、3速を1.448から1.750に、4速を1.088から1.354に、5速を0.825から0.871に変更。本格フルクロス仕様によって、低速から高速コースまで十分なポテンシャルを発揮できるようにした。また、装備面ではアンダーガードなどを新たにセット。フロントシートの仕様も、ドットモケット地スポーツシートからカラーモールファブリック地ハイサポートバケットシートに切り替わった。

 その後もRS typeRAはベース車のCタイプ、Dタイプへのマイナーチェンジンに合わせながら緻密なポテンシャルアップを図り、ユーザーの高い支持を獲得していく。そして、国内外のラリーシーンで数々の勝利を獲得。1990年代以降の「ラリーのスバル」の礎を築いたのである。

世界ラリー選手権(WRC)に本格チャレンジ

 富士重工業およびSTIは、コンペティション仕様のレガシィRSの開発とともに世界ラリー選手権(WRC)へのフル参戦を決断する。1989年には英国の名コンストラクターのプロドライブとパートナー契約を結び、レガシィRSをベースとするグループAマシンの開発に勤しんだ。ラリーモデルのレガシィRSは、まず日本製マシンが1990年4月開催のサファリで初陣を飾り、J・ヘザーヘイズ選手が総合6位に入る。プロドライブ製マシンの参戦は、第6戦アクロポリスから。ドライバーはM・アレン選手やP・ボーン選手らが務めた。

 デビューシーズンは第7戦ニュージランドでボーン選手が5位、第9戦1000湖でアレン選手が4位、第10戦オーストラリアでボーン選手が4位に入賞する。翌1991年シーズンではドライバーにA・バタネン選手が参加。第2戦スウェディッシュでアレン選手が3位、第7戦ニュージーランドと第10戦オーストラリアでアレン選手が4位、第14戦RACでバタネン選手が5位に入るなど、徐々に戦闘力が高まっていった。
 1992年シーズンになるとC・マクレー選手が参戦。第2戦スウェディッシュでマクレー選手が2位、第6戦アクロポリスでマクレー選手が4位、第9戦1000湖でバタネン選手が4位、第14戦RACでバタネン選手が2位に入賞する。
 1993年シーズンは夏ごろに次期戦闘マシンであるインプレッサWRXに移行することが決まっており、レガシィRSでは最後の参戦シリーズとなった。熟成が進んだレガシィRSは、第2戦スウェディッシュでマクレー選手が3位、第3戦ポルトガルでアレン選手が4位に入るなど安定した速さを見せつける。そしてレガシィRSでの最終戦となる第8戦ニュージランドでマクレー選手が総合優勝を果たし、見事に“有終の美”を飾ったのである。