シトロエン2 CV 【1948〜1990】

こうもり傘に4つの車輪をつけた実用車

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シトロエン社の社是、それは「人間と文明をつなぐこと」

 シトロエン2CVという変わった名前のクルマがある。車名の2CVとは、フランス語で2頭の馬(La deux chevaux=2馬力)の意味で、フランスにおけるエンジンの課税馬力が2馬力のジャンルに属することを示している。2CVは1948年10月に発表され、翌月から販売を開始した。その外観からご当地フランスでは“醜いアヒルの子”とか “犬小屋”など、およそ褒め言葉とは縁遠いフレーズで語られることの多いクルマだった。

 2CVの製造メーカーであるシトロエン社は、第一次世界大戦終結直後の1919年にパリのエコール・ポリテクニーク(国立工科大学)で機械工学を修め、歯車の生産で財を成したアンドレ・シトロエンが興した自動車メーカーである。創業当時から実用車を中心としてモデル開発を行っていた。アンドレは人間と文明をクルマという道具を使って、有機的に結びつけようという壮大な思考の持ち主で、クルマはあくまで人間に使われる道具のひとつであるという信念があった。

前衛的な「前輪駆動=FFモデル」の開発

 創業者のアンドレは、1934年に革新的なメカニズムを持った実用車を登場させる。シトロエン7CVと11CVである。その革新的なメカニズムとは、前輪駆動方式(FF)だった。7CVと11CVは「トラクシオン(駆動)・アバン(前方)」という別名で呼ばれたように、世界初といっていい前輪駆動方式を採用した量産車だった。しかし、あまりに革新的でありすぎた前輪駆動の7CVおよび11CVは、生産化のために莫大な資金を必要としたため、ついにアンドレは破産、自ら築き上げたシトロエン社はタイヤメーカーのミシュラン社と合併する(実質的にはミシュランによる吸収合併)こととなった。そして、アンドレは胃癌を発症し、1935年7月3日に57歳の若さで他界する。だが、革新的なクルマ作りの思想は、シトロエン社の経営指針としてその後も永く受け継がれるのである。

2CVの前身、「TPV」の開発

 アンドレ・シトロエンの思想を受け継ぐ、新生シトロエン社の副社長となったピエール・ブーランジェ(ミシュラン社から派遣され、後にシトロエン社の社長に就任)は、第二次世界大戦が起こる以前に、手押し車や自転車に代わるべき新しい小型実用車の開発することを決めていた。その小型実用車の開発に際して、ブーランジェが設けた条件は、正装した際に使うシルクハットがぶつからない室内スペースを確保すること、バスケットいっぱいの卵を載せて未舗装路を走った時に、一個の卵も割れない優れた乗り心地を実現すること、4名の大人と50kgのジャガイモを積んで、60km/hの速度でコンスタントに走れることなどであった。豪華さは求めないが、広さと快適性、そして十分なパフォーマンスを実現した小型実用車、ブーランジェの言葉を借りれば“こうもり傘に4つの車輪”をつけたクルマということになる。

 1935年秋にTPV(Toute Petite Voiture=極めて小さなクルマ)のコードネームのもとで始まった新型車の開発は、1937年に試作車が完成する。そして1939年になると進化版プロトタイプが製作され、エンジンは排気量375ccの水平対向2気筒となった。冷却機構については水冷と空冷の両方が試される。また、TPVにはセルモーターは無くロープを引っ張ってエンジンを始動する方式を採用。側面の窓は下部分だけが外側へ開閉できるようになっていた。室内については、シートはパイプにキャンバス地を張り、スプリングはゴム紐で代用する。ルーフやトランクリッドは防水処理を施したキャンバス地とするなど徹底した軽量化とコストダウンが図られた。TPVのプロトタイプは様々な仕様があり、250台から300台ほどが造られたという。

戦争の影響で発売が延期されたTPV

 TPVの市販を目前にしてフランスは第二次世界大戦に突入する。シトロエン社といえども、とても新型車を発売する状況ではなくなってしまった。1940年6月にはフランスはナチス・ドイツに降伏し、パリはナチス・ドイツの占領下に置かれる。すでにTPVの存在はナチス・ドイツに知られており、ドイツ軍はTPVの提供を迫ったというが、ブーランジェは従わず、多くのTPVが解体もしくはフランス各地に隠匿された。近年、そのなかの何台かが発見され、大きな話題となった。

 戦争が終わり、直接的な戦場となったフランスでは、国土や社会の荒廃はその極にあったが、クルマの生産再開は早かった。シトロエン社では1946年10月には戦前型そのままの11CVの生産を開始する。けれども、当時のフランスの人々が本当に必要としていたのは、もっと小型で安価な実用的なクルマだった。後に2CVとなるTPV発売の期は熟していた。

大統領を困惑させた2CVのお披露目

 1948年10月、パリ・サロンの会場で「2CV」と名づけられたシトロエン社の新型車が発表される。会場を訪れて、ブーランジェから新型車の説明を受けたフランス大統領のオリオールは驚きを隠さなかったという。そりゃそうだろう、目の前にある“新型車”は、彼の基準からすればとてもクルマとは思えない代物だったからだ。

 4人の大人を座らせ、それを薄い鉄板で覆っただけのボディ、スタイリングはかろうじてクルマの形はしていたが、それ以上簡略化できないほどチープなものだった。デザインはトラクシオン・アバンや後のDSを生むフラミニオ・ベルトーニ(Flaminio Bertoni)による。基本メカニズムは戦前から開発が進められていたTPVをほぼそのまま踏襲していた。ただし、サイドシルに縦置きされた二重構造を持つ一対のコイルスプリングを用いた前後関連懸架や、4輪の根元にケースに入れてつけられた重りの上下動による慣性ダンパーなどは2CV独自の機構であった。メカニズム部分の設計は、第一次世界大戦当時は航空機の生産を手がけていたボワザン社から1930年代半ばにシトロエン社に移ったアンドレ・ルフェーブル(Andre Lefebvre)が担当した。

2CVは42年あまりの長きに渡って生産を継続

 「10年は進化したモデルを造り、可能な限り造り続ける」というのは、アンドレ・シトロエンの思想であった。2CVはその思想を受け継ぎ、ほとんどモデルチェンジらしいモデルチェンジもなく、長年に渡って造り続けられた。無論、細部は時代の要求に従って進化していったのだが……。発展の足跡で最もわかりやすいのはエンジン出力の向上である。1948年のデビュー当初では、排気量375ccで9hp/3500rpmにすぎなかったが、1954年には排気量を425ccに拡大して12hp/3500rpmへ、1963年には排気量はそのままで出力を16.5hp/4200rpmにアップしている。

 2CVの1963年時点のボディサイズをみると、ホイールベースの2400mmはデビュー当時と変わらず、全長3780mm、全幅1480mm、全高1600mm。車両重量は510kgと軽く、実用性能は十分なレベルにある。2CVはデビューするやたちまち人気車種となり、合理的なフランス人の忠実な足となる。そして改良に改良を加えながら1990年7月まで生産された。総生産台数は各型あわせて386万8634台であったという。日本へは日仏自動車やその後を引き継いだ西武自動車販売により輸入販売された。