ミストラル 【1994,1995,1996,1997,1998】
スペイン生まれのミディアム四駆
ハイソカーの頂点といえる“シーマ現象”を巻き起こし、勢いに乗っていた1980年代終盤の日産自動車。しかし、1990年代に入るとバブル景気が崩壊し、ユーザーの志向はハイソカーからRV(レクリエーショナル・ビークル)へと移っていった。逼迫した経営状態の最中、RVのラインアップ強化が急務だった日産は、1993年になって大胆なプランを画策する。スペインのニッサン・モトール・イベリカ(NMISA)で生産する4WDモデルの「テラノII」を、日本に輸入して販売する計画を打ち出したのだ。
NMISAは1980年1月より日産が資本参加したスペインの自動車生産会社で、後に社名をモトール・イベリカからニッサン・モトール・イベリカに変更した。工場ではニッサン・パトロール(日本名サファリ)などを製造していたが、1993年からはニッサン・ヨーロピアン・テクノロジー・センター(NETC)が開発を手がけた欧州向け4WDである「テラノII」も生産を開始する。テラノIIは兄弟車のフォード・マーベリックと合わせて、欧州市場で大ヒット。1993年の販売台数は1万6000台あまりを数え、ローバー・ディスカバリーなどを抜いてトップシェアの地位に上りつめていた。
テラノIIの日本仕様化に際し、開発陣はオーバーフェンダーやサイドステップの装着、ディーゼルエンジンおよびATのセッティング変更、装備の充実化など、750あまりもの改良を実施する。これらの変更のために、日産の開発陣は1年以上の月日を費やしてテストを繰り返した。
テラノIIの欧州発売から1年1カ月あまりが経過した1994年6月、日本仕様のテラノIIが「ミストラル」(R20型系)の車名を冠して市場デビューを果たす。ボディタイプは7名乗り3列式シート装着の4ドアロングボディ(ホイールベース2650mm)のみの設定で、エンジン&ミッションにはTD27B型2663cc直4OHVディーゼルターボ(100ps/24.8kg・m)+電子制御式4速AT(最終減速比4.625)の1タイプを組み合わせる。トランスファーはオートロックフリーランニングハブを組み込んだパートタイム式4WD(2H/4H/4L)。グレード展開は装備アイテムの違いで、上級モデルのタイプXとベーシック仕様のタイプSをラインアップした。
ミストラルは「欧州生まれの洗練されたデザイン、欧州の合理的なパッケージング、欧州テイストの走りを実現したピュア・ヨーロピアン・オールローダー」をキャッチフレーズに据える。わずか60文字程度のコピーに欧州&ヨーロッパを示す言葉が4回も出てくるのだが、実車の印象も確かに欧州を志向したことが分かる内容だった。グリルガードやオーバーフェンダーなどを除けばシンプルな基本スタイリング、実用性に重きを置いたキャビンスペース、テラノと共通のサスペンション形式ながらリバウンド側のサスペンションストロークを大きくとった足回りのセッティングなど、随所に欧州生まれらしい特性が感じられた。
欧州産を強調し、かつ261〜279万円という安めの価格設定(当時のクロカン4WDの3列シート・ロングボディ車は300万円超が主流だった)で市場にアピールした新RVのミストラル。しかし、販売成績はデビュー当初を除いて伸び悩んだ。シンプルなルックスや簡素な内装アレンジなどが、華美なデザインを好むクロカン4WDユーザーの購入欲を刺激しなかったのである。また、RAV4やCR-Vなどの登場によって、4WD車の人気がライト級に移っていったことも、販売不振の要因となった。
日産はテコ入れ策として、1996年2月に2ドアショーボディ(ホイールベース2450mm)のタイプRを発売する。4ドアよりもまとまりのあるルックス(基本デザインを手がけたIDEAが最初に企画したのは2ドアだった)に引き締まった足回りを有するタイプRは、ミストラルに新たな個性を創出した。
1997年1月になると、シリーズ全体のマイナーチェンジが実施される。搭載エンジンはTD27ETi型2663cc直4OHVインタークーラー付ディーゼルターボ(130ps/28.4kg・m)に換装。また、ヘッドライトは角型から丸型に、フロントフードはバルジ付きに、グリルはハニカム形状に変更される。同時に、インテリアカラーの変更やシート表地の刷新、快適装備の追加などを実施する。車種展開は、4ドアロングのタイプXと2ドアショートのタイプRという2グレードに絞った。
マイナーチェンジによって魅力度を引き上げたミストラルだったが、販売成績は苦戦を強いられる。また同時期、日産自体の経営悪化もさらに深刻化。1998年ごろになると、「もはや自主再建は難しい」という流れが、日産の経営陣やメインバンクのあいだで大勢を占めるようになった。この流れを受けて、経営陣は販売不振の車種を整理する方針を決断。ピュア・ヨーロピアン・オールローダーを標榜したミストラルも、1998年2月に販売を終了することとなったのである。
欧州名テラノII、日本名ミストラルの基本デザインを手がけたのは、イタリアのトリノに居を構えるデザイン会社の「IDEA」(Institute for Development in Automobile)だった。
1978年にフランコ・マンテガッツァ氏が設立したIDEAは、主にフィアット社を顧客とし、ティーポやテムプラなどのスタイリングを担当する。また、アルファロメオ155やランチア・デドラといったモデルもIDEAの作品だ。日本の自動車メーカーとは1990年代に入ってから本格的な付き合いが始まり、前述の日産テラノII/ミストラルやダイハツ・ムーヴなどを手がける。ちなみに、日本人の著名インダストリアルデザイナーである原田則彦氏も、カロッツェリア・ザガートに所属する前にIDEAに在籍していた。