日産デザイン02 【1952,1953,1954,1955,1956,1957,1958,1959,1960】

英国デザインの研鑚からオリジナル造形への発展

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ノックダウン生産による海外自動車技術の習得

 1950年代初頭まではDBシリーズやスリフト/コンバーなど、オリジナル乗用車を主力としていた日産自動車。一方で同社は、最新の自動車技術を学ぶ目的で欧州メーカーとの技術提携を模索する。メカニズムの信頼性や日本の事情に合ったスペックなどを考慮した結果、日産は英国のオースチン社を提携先に選んだ。提携契約は1952年12月に締結し、輸入部品の組立を踏まえた完全ノックダウン生産、いわゆるCKD(Complete Knock Down)を行うクルマは「オースチンA40」に決定する。1953年4月には日本での組立第1号車が完成し、翌5月には「ニッサン・オースチンA40・サマーセット・サルーン」の名で市販を開始した。

 流線形を基本としたボディに広いガラスエリアを備えたA40は、従来のダットサンにはなかった新機構を満載していた。ここに日産の開発陣は、国産の曲面ガラスや足回りパーツなどを相次いで装着していく。1954年には本国でA40からA50にモデルチェンジしたためにパーツの国産化は一旦リセットの憂き目に合うが、1955年1月から販売されたコンベンショナルな3BOXセダンの「ニッサン・オースチンA50ケンブリッジ・サルーン」でも矢継ぎ早に国産パーツを組み込んでいった。そして1956年5月になって、ついにA50の完全国産化を成し遂げたのである。

日産自動車造形課の本格的なデザイン活動

 ノックダウン生産による英国の乗用車造りの習得は、1950年代に入るとオリジナル小型乗用車の開発に活かされるようになる。車体デザインを手がけたのは、同社の敏腕エンジニアである佐藤章蔵率いる造形課スタッフたちだった。D計画の名のもとに開発が推し進められた小型乗用車は、車両レイアウトとして860cc直4SVエンジン(D10型)の搭載や普通車並みの広い室内空間の創出、さらにボディ前部の貨物車との共通化などが条件として課せられる。開発陣はこれらをクリアしたうえで、小型車の規格に則した3BOXのセダンスタイルを考案。各部にも工夫を凝らし、横バータイプのグリルやラウンディッシュな後端ラインなどを採用した。

 日産の新世代乗用車は、1955年1月に「ダットサン110」として市場に放たれる。同年12月には早くも一部改良が敢行され、ハーモニカ形グリルの採用などによって見栄えが向上。112では1956年度の毎日工業デザイン賞を獲得した。1956年6月になるとリモートコントロール式シフトを設定した113が登場する。1957年10月には新設計の988cc直4OHVエンジン(C型)や12V電装、曲面強化ガラスなどを組み込んだ210がデビュー。従来モデルは114に発展した。さらに1958年10月になるとグリル形状の変更やリアガラスの拡大などを実施した211が発売され、同時に114も完成度を高めた115へと移行した。

オリジナルデザインのブルーバード誕生

 ダットサンを進化させる一方、開発陣は来るべき1960年代に向けて新しい小型乗用車=次期型ダットサンの企画を鋭意推し進める。掲げた目標は「日本のみならず、海外にも通用する乗用車に仕立てる」こと。車体デザインに関しては、近代美と安定感のある優雅なスタイルを構築したうえで、快適な室内空間と優れた収納性の実現を目指した。新しいダットサンは、310の型式を付けて1959年7月に発表される。車名にはメーテルリンクの童話にちなみ、世界が求めている希望の“青い鳥”のようなクルマであるようにという願いを込めて、「ブルーバード」と冠した。310型系ダットサン・ブルーバードには斬新なメカニズムが満載される。基本骨格はセミモノコック式ボディと低床式ラダーフレームの組み合わせで、軽量かつ高強度の車体を確保。また、3BOXのセダンスタイルは従来よりも見栄え品質を引き上げ、かつ欧米的な要素に加えて独自(日本的)のアレンジも施した。個性的なリアランプ形状から“柿の種”というユニークなニックネームが付いたブルーバードは、その上質なデザインや実用性の高さなどで高い人気を獲得する。発売1カ月のバックオーダーは、当時としては異例の8000台あまりにのぼった。

近代的な造形の「ダットサン・スポーツカー」

 日産の開発陣は乗用車造りに励むのと同時に、ダットサン・スポーツDC-3の後継を担うスポーツカーの企画にも注力する。シャシーは基本的にセダンモデルのダットサンを流用。一方で被せるボディは、英国のライトウエイトスポーツを彷彿させるオープンボディで構成した。DC-3から打って変わりモダンなスタイリングが与えられた新スポーツカーは、「ダットサン・スポーツカー」(S210)として1957年11月に初披露される。発表場所は東京の三越本店屋上で、“ダットサン展示会”の舞台で公表された。滑らかなボディラインに存在感あふれるメッキグリル、そして均整のとれた2シーターオープンボディを有する同車は、たちまち多くの観客を魅了した。

 ダットサン・スポーツカーの公表後、開発陣は着々と生産型の企画を進めていく。そして1958年開催の第5回全日本自動車ショウにおいて、生産型のプロトタイプを公開した。プロトは基本的なスタイルをS210から踏襲するものの、キャビンは2座から4座へと一新。同時にグリル形状の変更などを行い、より見栄えのいいオープンカーに仕上げた。日産の意欲作である新スポーツカーはS211の型式で1959年6月に発売される。スタイリッシュなオープンボディは日東紡の新製品であるガラス繊維強化プラスチック(FRP)で構築。車重は765kgに抑えられていた。S211はわずか20台が生産された後、1960年1月にマイナーチェンジが行われて「ダットサン・フェアレデー(後にフェアレディに改称)」(SPL212)に移行する。特徴的だったFRPのボディ材質は一般的なスチールに変更された。そして1960年10月には、改良版のSPL213が登場する。SPL212/213は基本的に輸出専用モデルで、日本市場では少数のみの販売にとどまった。