高速道路/関越自動車道01 【1963〜1985】

首都圏と日本海側を結ぶ三国山脈貫通の高速自動車道

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目的は首都圏と日本海沿岸地域との交通の迅速化

 1950年に時の行政府から国土総合開発法が公布されて以後、特定地域の総合的な開発や都道府県計画の策定が一気に進み、地域開発の気運が全国的に盛り上がった。一方、国土の開発における大きな問題点も明らかになる。地域を結ぶための物流の交通網、すなわち道路の整備だ。とくにモノが早く大量に運べる高速道路の建設は、必要不可欠の課題とされた。

 1951年になると建設省の道路局は戦争で中断していた高速自動車道整備調査を再開する。翌1952年6月には旧道路整備特別措置法が制定され、1957年4月になると高速自動車国道法が成立。そして1957年10月には建設大臣から名神高速道路の施行令が出され、さらに1960年7月には「東海道幹線自動車国道建設法」と「国土開発縦貫自動車道中央自動車道の予定路線を定める法律」が成立し、東名高速道路と中央自動車道の建設が決定した。

 本州の大都市間を横断する高速ルートが策定される一方、1963年7月には首都圏と日本海側を結ぶ本州縦断形の高速道路、「関越自動車道建設法」が議員立法の形で制定される。その主旨を示した第1条には「首都圏とこれに近接する日本海沿岸地域との交通の迅速化を図り、相互間の産業経済等の関係を一層緊密にし、かつ関係地域の開発を強力に推進するため、全国的な自動車交通網の枢要部分を構成するものとして、緊急に、これらの地域を通ずる自動車の高速交通の用に供する幹線たる自動車道を建設し、もつて産業基盤の強化に資するとともに国民経済の発展に寄与することを目的とする」と明記された。また1966年7月になると、幹線道路網の整備を策定した「国土開発幹線自動車道建設法」が作られ、関越自動車道の建設計画はこの中に組み込まれることとなった(関越自動車道建設法は廃止)。

山間部を縫う上で必須となった2つの巨大構造物の建設

 関越自動車道の建設は、1967年3月より練馬IC〜川越IC間から工事が開始される。また、新潟県の長岡ICや群馬県の前橋ICなどからも随時工事が進行した。関越自動車道はその行程上、2つの巨大な構造物を設けることが必須課題となる。赤城山系の麓で利根川支流をまたぐ高橋脚長大橋と、谷川岳を貫通する長大トンネルの建設だ。

 高橋脚長大橋については、沼田IC〜赤城ICの利根川支流をまたぐ箇所に「片品川橋」「永井川橋」「沼尾川橋」という3本を架設する。片品川橋は3径間連続トラス3連で、橋長1033.85m/最大支間長168.85m/高さ55〜70m。トラス構造の道路橋としては日本一の橋長だ。永井川橋は5径間連続箱桁で、橋長487m/最大支間長123m/高さ75.7mと、数ある関越自動車の橋の中で最大級の高さを誇る。沼尾川橋は橋長681m/最大支間長101m/高さ67mの6径間連続箱桁の橋梁。黄色く塗られた橋桁が特徴だ。それぞれの個性を有する3本の橋梁は、完成後に優れた橋に贈られる土木学会の田中賞を受賞している。

難工事だった関越トンネル

 長大トンネルに関しては1972年6月にトンネル部を含む月夜野IC〜湯沢ICの建設命令が施行され、1977年7月より湯沢側坑口付けが、同年10月に水上側坑口付けが行われる。起工式は1977年11月に開催された。険しい岩盤と複雑な地形、そして変化の激しい気候などで知られる谷川岳を貫かせるだけに、トンネル工事にはさまざまな工法や管理システムが模索される。ダイナマイトを使った全断面掘削工法に“山はね”を防ぐロックボルト工法(Ⅰ期線。Ⅱ期線はコンクリート吹付とロックボルト併用による全断面NATM工法)、アリマッククライマ工法(万太郎立坑)とレーズボーラ工法(谷川立坑)による換気用立坑、電気集塵機を組み入れた立坑送排気縦流換気方式、150mおきに設置したジェットファンなどを採用し、超難関のトンネル建設に挑んだ。

 工事中は岩盤破裂や湧水の浸入、硬軟変化の激しい地層に苦労したものの、それでも懸命の努力と創意工夫の工程で建設を続行。1982年2月にはついに10.926mの長大トンネルが貫通し、1985年10月になって「関越トンネル」として供用を開始した。

物流用に加えてスキー場への人気移動ルートとしても発展

 関越自動車道の実際の開通過程に関しては、まず1971年12月に練馬IC〜川越ICが供用を開始。1975年8月には川越IC〜東松山ICが、1978年9月には長岡IC〜長岡JCTが、1980年7月には東松山IC〜前橋ICが開通する。1980年9月になると、長岡JCTが開通して北陸自動車道とつながった。高速道の延長はさらに続く。1982年3月には越後川口IC〜長岡ICが、同年12月には小出IC〜越後川口ICが、1983年10月には六日町IC〜小出ICが、1984年11月には湯沢IC〜六日町ICが開通する。そして1985年10月、前橋IC〜湯沢ICの供用開始によって関越自動車道246.3kmの全線が開通した。

 当初の目的通り、関越自動車道によって首都圏と日本海側の物流はよりいっそう促進される。一方、同ルートの周辺地域には多くのスキー場が設置されたことから、シーズンになると激しい渋滞が起こるなどの問題も発生。これに対処するために、1980年代後半から1990年代初頭にかけて四車線工事が急ピッチで行われ、1991年10月には全線四車線化が完了した。