タイヤの歴史/ブリヂストン4 【1987〜1992】

ファイアストンを足掛かりにした米国進出、第2の創業

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ファイアストンを足場にした米国進出

 1987年度方針説明会において、ブリヂストンは新たなる目標を掲げた。「1990年代に世界のタイヤ産業のトップスリーに列する」「グローバル10(世界市場で販売ゴム量シェア10%)」という具体目標を明示したのだ。すでに創立50周年を迎えた1981年に「世界のビッグスリーに列する」という目標は公表されていた。しかしそのビッグスリーは、タイヤ以外の分野を含めた目標だった。タイヤのみで“トップスリー”入りすることを表明したのは、この時が初めて。シェア目標も“グローバル10”という明快なものだった。世界有数の技術開発力と、好調な販売が、ブリヂストンの強気の原動力だった。

 しかし、タイヤ業界の経営環境は年を追うごとに厳しさを増していた。とくに日系自動車メーカーの米国進出に伴い国内新車用タイヤ需要が減少。社内では、米国への本格的な進出を望む声が高まっていた。とはいえ、米国でのリプレイス用タイヤの販売は好調に推移していたものの、米国系自動車メーカーへの新車用タイヤ納入実績はなかった。米国に進出しても新設工場の供給力に見合う安定した需要を確保することは難しかった。そんななか、米国のタイヤメーカーの老舗ファイアストンとの合弁会社設立構想が浮上する。ファイアストンは北米、中南米、欧州で多くの生産拠点を持っており、ブリヂストンの生産拠点とのオーバーラップもなかった。懸案である米国進出とともに、ワールドワイドでの無駄のない生産拠点網が構築できると判断された。ブリヂストンは1988年1月、ファイアストンに対し正式に「ファイアストンの全世界のタイヤ事業部門を所有し、経営する合弁会社を設立し、株式の過半数を取得したい」旨を正式に申し入れた。

第2の創業となった、ファイアストン立て直し

 ファイアストン側からも「合弁事業に関心がある」との回答が到着。ブリヂストンは送付されたファイアストンのタイヤ事業の財務データを検討後、2月16日に、ブリヂストン75%、ファイアストン25パーセントの合弁枠組みを決定、対外発表した。
 3月に突然ピレリが、ファイアストン株式の公開買い付けをすることを表明するなど、合弁化にはいくつかの障害が発生したが、5月には無事に株の取得を完了。ファイアストンはブリヂストンの完全子会社になり、新たな体制がスタートする。家入社長は「独自の販売網拡大には長い時間と労力がかかり、ファイアストンをピレリに取られたら永久にチャンスを失うと考え、時間を買った」と後に述懐した。
 ただし前途は多難だった。1988年4月に世界トップの自動車メーカー、GMがファイアストンからのタイヤ調達を2年以内に打ち切ることを発表したからだ。この他にも解決すべき課題は山積していた。

 ブリヂストンは、ファイアストンを買収した1988年を「第2の創業」と位置付けた。家入社長は訓示で「それぞれの企業体質や主体性、文化を尊重し、最終的には統合から融和に至ることが大事である」と説いた。1988年6月、新生ファイアストンは、ネピン会長兼社長のもと、ブリヂストンから竹内、平井両取締役が入る6名の役員構成でスタートを切る。さっそく徹底した実態調査を行い「ファイアストンのタイヤ事業への再集中化」の方針を決定。1988年11月には3年間で15億ドルを投資する再建計画を発表する。12月、まず6億ドル増資を完了。技術部門は高性能タイヤの製造技術を提供し、同時にコスト改善活動の支援を行った。

 ブリヂストン・ブランド製品の現地生産化も急ピッチで進んだ、これにより生産技術の移転が加速し、ファイアストン・ブランドの品質向上にも貢献した。ちなみに現地生産されたタイヤの多くは、現地生産の日本車に装着された。
 1989年8月には、ファイアストンと米国ブリヂストン(BSUS)を統合、ブリヂストン/ファイアストン・インク(BFS)と社名変更すること、本社をアクロンに置くことが発表される。この統合は、最終的には1990年5月、BFSがBSUSを吸収合併することで完結。1990年1月には江口会長が現地に赴任した。江口会長はファイアストンの負の遺産を明らかにし、立て直しの基礎を作った。

技術力が光ったスタッドレスの開発

 買収から3年。ブリヂストン・ブランドの米国生産は増大し、ファイアストン・ブランドも製品レベルは大幅に向上していた。自動車メーカーへの納入拡大も進んだ。しかし業績の本格回復には時間を必要とした。1990年BFSは、売上高50億ドルを記録する。だが税引き後で3億5000万ドルもの赤字だったのだ。
 1991年3月には、海崎副社長がBFSの会長兼CEOに就任。一段の合理化と販売網強化策を打ち出す。その結果、1992年の下期にはようやく600万ドルの黒字を計上するまでに経営を立て直す。

 米国では悪戦苦闘を続けていたが、この間も国内事業は順調に拡大する。とくにウインタータイヤ開発ではブリヂストンの高い技術力が光った。1980年代初頭までウインタータイヤは、スパイクタイヤが主流だった。しかしスパイクタイヤは路面を損傷させ、発生する粉じんが社会問題となる。そんな中でスパイクタイヤの製造・販売中止が決定。新たなウインタータイヤの主役となるスタッドレスタイヤの性能向上が急務となった。ブリヂストンは入念な氷上試験の結果、タイヤ表面の粗さが大きいほど氷上摩擦係数が大きいことを発見。ここからスポンジのように気泡を取り込んだ“発砲ゴム”の発想が生まれた。
 1988年、発砲ゴムを使用したスタッドレスタイヤ、ブリザック・シリーズを発表。瞬く間に「スタッドレスならブリザック」と言われるほどの高い評価を獲得した。ブリザック・シリーズは、ウインタータイヤの拡販に大きく貢献する。