シルビア 【1965,1966,1967,1968】

“走る宝石”の異名をとった至高の国産クーペ

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海外デザインの導入を検討

 日本の各自動車メーカーが乗用車の完全国産化および量産体制を確立し、基幹産業としての地位を高めはじめた1960年代初頭。この状況下で日産自動車は、既存モデルにはなかった高級クーペを開発する。欧州のポルシェやアルファロメオといった高級スポーツカーメーカーが製造するグランツーリスモ=GTのカテゴリーに、日産も参入しようとしたのである。

 高級クーペの基本デザインを手がけるに当たり、日産の開発スタッフは海外のインダストリアルデザイナーに協力を仰ぐ。白羽の矢を立てたのは、BMW507や503のデザインを担当して名を馳せていたドイツ人デザイナーのアルブレヒト・フォン・ゲルツだった。日産はゲルツを同社の横浜工場に招聘し、造形部においてデザインの新しい製作方法やクレイモデルの作成工程の教えを請う。その過程のなかで、未知の分野である高級クーペのデザインのコンサルティングも依頼した。

 ゲルツの指導を仰ぎ、日産の造形部で仕上げられた高級クーペは、当時の先端の流体力学が存分に取り入れられる。空力特性を踏まえ、ボディパネルの継ぎ目を極力廃した上でガラス類には曲面タイプを採用。さらに、鋭角的に削ぎ落としたクリスプカットと称するボディラインは、既存の国産車にはない流麗な美しさを醸し出した。また、立体的な横バータイプのグリルや楕円形のリアコンビネーションランプ、2分割されたメッキタイプのリアバンパーなどのディテールにも、デザイナーの高級クーペに対する主張が目一杯に表現された。

基本コンポーネンツはフェアレディを流用

 日産の開発陣は、インテリアの演出にもこだわった。内装全体にはソフトな発泡レザーを採用して高級感を演出。さらに、リクライニンング機構付きのバケットシートや木製のステアリングホイール、スイッチ類をコンパクトにまとめたコンソール、アームレスト兼用のセンターボックス、照射角度が自由に変えられるマップランプなど、高級で気の利いたアイテムをふんだんに盛り込んだ。

 シャシーに関しては、同社のスポーツカーであるSP310型(市販時はSP311型)フェアレディ用が流用される。フレームはXメンバーのラダータイプで、サスペンション形式はフロントがダブルウィッシュボーン式、リアが半楕円リーフ式。一方、ブレーキはフロント側にダンロップの284mm径ディスクが奢られる。搭載エンジンは当初、G型1488cc直4OHVを設定していたが、市販時にはG型のボアを7.2mm広げた上でストロークを7.2mm短縮した超ショートストロークタイプ(ボア87.2×ストローク66.8mm)のR型1595cc直4OHV(90ps/13.5kg・m)に換装された。燃料供給装置はHJB38W-3型キャブレターのツイン。組み合わせるミッションはポルシェタイプのボルクリンク・サーボ・フルシンクロ機構を内蔵した4速MTで、ギア比は第1速3.382/第2速2.013/第3速1.312/第4速1.000というクロースレシオに設定する。またクラッチには、表面積を364cm2にまで広げた強化型のダイヤフラムスプリング式を採用した。

ショーモデルの車名は“ダットサン・クーペ1500”

 日産渾身の高級クーペは、1964年9月に開催された第11回東京モーターショーの舞台で初披露される。車名は“ダットサン・クーペ1500”。当時の解説では、「将来のカーデザインを示唆するカスタムカー風のモダンなスタイリングが特徴」と謳われていた。
 居並ぶショーモデルのなかにあって、観客の熱い視線を最も集めたダットサン・クーペ1500。乗用車の輸入自由化が実施される1960年代中盤の日本市場において、同車が日産のイメージリーダーになり得ることを確信した首脳陣は、新しい高級クーペの市販化にゴーサインを出した。

 課題となったのが、ボディの製造工程だった。当時のプレス加工技術では実現が難しいクリスプラインのスタイリングを構築するためには−−。最終的に日産は、同社の協力工場としてダットサン・トラックやライトバン、初期のフェアレディなどを製造していた殿山製作所(現トノックス。神奈川県横浜市にて創業。現在の本社は同県平塚市)にボディ製作を依頼する。殿山製作所では高級クーペのための専用工程を設定し、ボディの多くの部分を熟練工による手叩きで仕上げた。

“ニッサン・シルビア”の車名で市場デビュー

 日産のイメージリーダーとなる高級クーペは、CSP311の型式を冠して1965年3月に発表され、翌月から市販に移される。車名は「ダットサンのブランド名は一般大衆車のイメージが強く、高級車には馴染まない」という理由から“ニッサン・シルビア”に改称された。当時のプレスリリースによると、「“シルビア”は、ギリシャ神話にいまなお生きる美しく清楚な乙女の名。このイメージをアレンジし、最も“魅力的なクルマ”として命名した」という。

 市場デビューを果たしたシルビアは、まず“120万円”(東京標準価格)という車両価格で脚光を浴びる。基本メカニズムを共用するSP311型フェアレディ1600で88万6000円(同)、日産のフラッグシップモデルであるH130型セドリック・スペシャル・シックスでも115万円(同)だった当時、高級クーペとはいえ2人乗りのクルマが120万円もしたのである。一般ユーザーには、まさに高嶺の花だった。

 シルビアはスタイリングや価格のみならず、その高性能ぶりでも注目を集める。メーカー公表値の最高速度は165km/hと控えめだったが、クロースレシオミッションを採用した効果もあってSS4分の1マイル(スタンディング・スタート約400m)加速は17.9秒を達成。この数値は、ポルシェ356CやMGBといった欧州スポーツモデルに匹敵するものだった。
 またシルビアは、発売と同月に開催された米国ニューヨーク・ショーにも出展され、予想以上の高い評価を受ける。自動車専門誌では、「今年のベター・ルッキングカーのひとつ」と称された。ちなみに当時のアメリカの自動車業界では、シルビアの洗練されたスタイリングが日本発だとは信じられなかったようで、マスコミ界では「ゲルツのデザイン」と紹介される。しかし、実際は前述の通りゲルツのアドバイスは受けたものの、最終的に取りまとめたのは日産のデザインスタッフだった。

 国内外で大きな注目を集め、華々しいデビューを飾ったCSP311型シルビアは、その基本スタイルと製造工程を変えないまま、1968年6月まで生産が続けられる。総生産台数は554台。商業的に見れば決して利益を得たモデルとはいえなかったものの、一方で「日本車でもここまで美しいスタイリングのクルマが製造できる」という事実を世界の自動車業界にアピールできたという点では、CSP311型シルビアは間違いなく“成功作”といえるのである。