日産・新聞広告1966~1969 【1966~1969】
大衆車時代の本格スタートを告げたサニー
1966年は、日産の新聞広告とともにスタートした。「ステキな名前をつけてください」というコピーとともに、日産期待の大衆車のネーミング募集広告がお正月の新聞各紙に掲載されたのだ。2月23日には「車名はサニーと決定!」という第二弾の結果広告が登場。新型大衆車の車名募集に合計848万3105通もの応募があったことを伝えると同時に、エンジン排気量は1000ccで定員が5名であること、さらにスタイリングも発表された。4月の正式発売を前に、ユーザーの購入意欲をいやが上にも刺激する広告といえた。サニーが登場した1966年は、国民の所得レベルが向上に伴い、一部の裕福な人のためのものだった乗用車が大衆のものとなり、乗用車が一般化するモータリーゼーション元年にあたった。一連のサニーの広告は、大衆車時代が本格スタートしたことをユーザーに印象づけた。
もちろんサニーがデビューした4月25日にも全面広告が掲載された。見出しは「話題の新車、いよいよ発売!」。上段に2ドアセダン、下段にはバンの写真が掲載され、セダンが41万円から、バンは39万円からのリーズナブルなプライス設定であることを強調していた。セダンだけでなく、商業車のバンも同時に扱っていることが、時代性を表していた。その後もサニーの広告は月1回のペースで新聞紙上を飾り「この高性能でこの価格」、「新車種でこの記録は日本記録です」(発売80日後に1万台の販売を記録)、「どこから見てもナンバーワン!!」、「持つならやっぱりサニーに限ります」など、そのコストパフォーマンスや人気ぶりを訴求する広告で注目を集めた。
1967年の話題はブルーバードだった。3代目のブルーバードとなった510型はスタイリングから、エンジン、足回りに至るまで、すべてがブランニューの意欲作だった。それだけに新聞広告も、さまざまな斬り口で魅力を表現した。デビュー時の8月17日の新聞広告のキャッチは「新ブルーバード発売!! 高速ツーリング時代の到来を告げるスーパーソニックライン」。シャープなスタイリングをメイン訴求しながら、中段に「常識やぶりの高出力OHC、72馬力1300ccをはじめ、随所に新機構採用」と見出しを入れ、下側に配置したカットモデルとともにメカニズム面でもライバルをリードした存在であることを分かりやすく表現していた。さらに8月24日の広告では、颯爽と走るブルーバードのビジュアルと「この美しいスタイルに未来のカーデザインの方向がある」というコピーを組み合わせ、ブルーバードのスタイリングと先進性をアピールする。
プリンス自動車との合併によりラインアップが充実したことを訴求する広告も目を引いた。1967年4月13日の新型グロリアの広告コピーは「世界の日産から、新鋭車登場!」従来プリンスのフラッグシップだったグロリアが日産ブランドになったことを印象づけるものだった。10月9日の新聞紙上を飾ったトラックの広告も同一イメージ。ホーマー、クリッパー、マイラーという従来プリンス・ブランドの商業車のマイナーチェンジを記念した広告で、キャッチは「世界の日産から新鋭トラックぞくぞく登場!」。合併により乗用車だけでなく、商業車の品揃えが増えたことをアピールした。
1968年になると、ハイオーナーカーの時代に突入したことを印象づける上級モデルの車種広告が増える。3月19日には、4月6日の発売に先駆けて新型車ローレルの広告を掲載。「技術の日産が国際水準を大きくリード、オーナーの方々の理想を実現 ローレル誕生!」のコピーで、従来にない上質なブランニューカーであることを表現した。9月21日のスカイライン2000GTの誕生広告では、疾走するレーシングプロトのR381のビジュアルと「走る閃光!」のコピー、そしてダイナミックなスタイリングを組み合わせ、スカイライン2000GTの卓越したパフォーマンスを印象づける。
高速道路網が充実し、技術発展も目覚ましかった1960年代後半は、クルマに走りのよさと快適性が求められた時代である。ローレルやスカイライン2000GTの広告は、そのユーザーニーズにストレートに応え、購買意欲を刺激する構成だった。