S800 【1966,1963,1964,1965,1967,1968,1969,1970】

世界を驚嘆させた“時計のように精緻な”マイクロスポーツ!

会員登録(無料)でより詳しい情報を
ご覧いただけます →コチラ


1962年、東京モーターショーのホンダ・ブースは熱気に溢れていた。
そこに展示されていたのは人々の夢をかき立てる2台のスポーツカー、
S360/S500の2台である。
ノーズに精緻な直列4気筒DOHCエンジンを搭載した
2シータースポーツは1966年にS800に進化し、
ホンダの高い志と走ることの素晴らしさを全身で表現する。
ホンダ黎明期の傑作マイクロスポーツは、
世界中のマニアの心を鷲づかみにした“小さな大物”だった。
ハイメカニズムに世界中が驚嘆!

 1962年10月に開催された第9回東京モーターショーで、ホンダはそれまでの国産車では考えられなかったような革命的とも言える2種類の2シーター小型スポーツカーのプロトタイプを発表した。「ホンダS360/S500」である。
 軽合金製シリンダーヘッドと水冷直列4気筒DOHC8バルブに4基の京浜製CVキャブレターの組み合わせと高度な設計を持ち、排気量356ccと492ccの2種のエンジンを設定。フロントエンジン・リアドライブでトランスミッションは4速マニュアル、サスペンションは4輪独立懸架を備え、スチール製のボックスセクション式セパレートフレーム構造を持っていた。

 ボディサイズはS360が全長2995mm、S500の全長は3195mm、全幅と全高はともに1295mm、1146mmで、ホイールベースは2000mmと短かった。車重はS360で510kg、S500が530kgと発表された。スタイルは極めてオーソドックスなものだが、当時の国産車の中では群を抜いてスタイリッシュなものとなっていた。
 エンジンの出力は356cc(軽自動車規格)で33ps/9000rpm、最大トルクは2.7kg・m/7000rpm、小型車規格の492cc仕様では各々40ps/8000rpm、3.8kg・m/6000rpmであり、まるでモーターサイクル用に匹敵する高回転型エンジンであった。最高速度は軽自動車のS360が120km/h、小型車規格のS500が130km/hと発表されていた。初めて4輪自動車市場に参入するのに、小型とは言え、いきなり2人乗りの高性能スポーツカーを作り上げてしまうところは、やはりホンダである。

産みの苦しみ!S360を断念! S500のみ発売

 しかし、ホンダSシリーズが市販化されるまでには幾つかの大きな波乱があった。その一つは、特に軽自動車規格のS360に対して、他の軽自動車メーカーから猛烈な反対が巻き起こったこと。ライバルメーカーの多くが同じ軽自動車の規格に収まるクルマであったホンダS360の格段の高性能に恐れを成したのだ。「あんな高性能車が売り出されたのでは、他の軽自動車が売れなくなる」と言うのが彼らの言い分だった。何とも無茶苦茶な論理だが、それほどホンダS360のインパクトが大きかったと言うことなのだろう。四輪車生産では後発となったホンダは業界に折れる形で、S360の市販化は見送られることになる。一方のS500は翌1963年10月に発売された。

 市販型のS500ではエンジンの排気量が531ccに拡大され、最高出力は44ps/8500rpm、最大トルクは4.6kg・m/4500rpmへと向上。ボディサイズも3300×1430×1200mmにサイズアップされていた。価格は45万9000円と、その性能からすれば十分に安価だった。基本的なスタイルはプロトタイプと変わらず、国産車としては飛び抜けた精悍さを持っていた。

 S500は1964年1月に早くもS600へと進化する。出力は57ps/8500rpm、トルクを5.2kg・m/5500rpmにそれぞれ向上した。その他主要な部分は変らず、わずかにフロントのデザインが拡大され、それに応じてバンパー形状をリファインした程度だった。最高速度は145km/h、0→400m加速18.7秒と、その性能は1.5Lクラスのクルマに引けを取らないものとなっていた。価格は50万9000円と相変わらず魅力的なものだった。1965年2月にはスポーツワゴンの色彩を持ったハッチバック・クーペもシリーズに加えられる。生産台数は1万3084台であった。

究極のS800登場! 最高速は100マイルを達成

 小型車は、常に重量増加と性能向上のためのパワーアップとの戦いである。ホンダSシリーズの場合も例外ではなかった。1965年の第12回東京モーターショーには、ホンダSシリーズの究極と言えるS800が登場、翌1966年1月から発売された。基本的な設計はS500から変らず、エンジン排気量が791ccへと拡大され、出力は70ps/8000rpm、トルクは6.7kg・m/6000rpmへと引き上げられた。トランスミッションはフルシンクロの4速マニュアルとなり、最高速度は遂に160km/hが可能となった。

 この当時、ホンダは本格的な海外輸出を考えていたので、S800には輸出用の改良が加えられた。1966年3月以降、S800の後輪サスペンションは、それまでのモーターサイクル的なチェーンドライブから、一般的な固定軸とコイルスプリングを使ったものとされて、信頼性を引き上げた。外観上では、ロードスター/クーペともにフロント・グリルが横バーを強調した彫りの深いものとなり、エンジンフードにはパワーバルジ(盛り上がり)が付けられた。このバルジは、本来大型のキャブレターなどを装備した際にボンネットとの干渉を避けるために付けられるものだが、S800の場合はファッション的な要素が強かった。さらに、テールライトも大型化され、視認性を高めた。これだけでもイメージはずいぶん変り、本格的なスポーツカーの風格を感じさせるものとなった。

 1968年5月にはホンダSシリーズ・スポーツカーの最終発展型であるS800M登場する。このモデルは輸出専用モデルを国内販売に振り向けたと言える仕様で、同時にハッチバック・クーペ仕様は輸出専用となった。S800Mはフロント・ディスクブレーキやラジアルタイヤが標準装備とされ、インテリアでは、インスツルメンツパネルにソフトパッドが張られた。外観上はボディ側面の前後に大型のリフレクター(反射板)が付けられている。これらは、主な輸出先であったアメリカの1968年安全基準に合致させるための変更だった。車重は755kgに増加したが、フレキシビリティに富むエンジンのおかげで最高速度は160km/h、0→400m加速16.9秒の性能は変わりなかった。 

サーキットでもS旋風が吹き荒れる

 国産初の本格的小型スポーツカーとなったホンダSシリーズは、黎明期から発展期に在った日本のモータースポーツに於いても華々しい活躍を見せた。1964年の第2回日本GPの排気量1000cc以下のマシンで争われるGT-Ⅱクラスに大挙して出場(決勝レースには21台中S500、S600合わせて合計11台)、クラス1位から4位までを独占すると言う圧倒的な強さを見せた。ホンダは国内レースではワークス活動をしなかったために、以後のレースには多くのプライベーター達によって、サーキットを席巻した。

 また、セパレートフレーム形式を持ち、ボディスタイルの変更も比較的容易であったため、多種多様なスペシャル・ボディが出現した。主なものとしては、故・浮谷東次郎が走らせたS600をベースとした通称カラス(1965年)やS800をベースとしたマクランサ(1968年)、コニリオ(1969年)などがある。
S800は、クーペを含めて1970年7月の生産終了までに1万1140台を生産した。ホンダSシリーズの総生産台数は2万5853台に達しており、当時としては大きな成功を収めたと言って良い。

 ホンダSシリーズの登場によって、トヨタは1965年にパブリカをベースとした「スポーツ800」(ヨタハチ)を、マツダは1967年にロータリーエンジン搭載のスポーツカー、コスモ・スポーツを登場させるなど、日本は空前のスポーツカー・ブームを迎えることになる。

COLUMN
進歩こそホンダイズム!? 目まぐるしいまでの改良の軌跡
 ホンダSシリーズの歴史は、改良&熟成の歴史でもある。時代の進歩に合わせて成長していくことこそ真のスポーツカーの姿だとよく言われるが、それにしてもSシリーズの改良はハイピッチだった。なにしろS500が正式発売された3ヶ月後にはS600に進化しているのだ。S500は1963年10月に発売したものの生産体制の不備でデリバリーは1964年1月にはじまった。しかしこの1月はS600がデビューした時でもある。ようやく念願のS500を入手したオーナーは複雑な心境だったに違いない。さらに64年10月にはクーペを追加。1966年1月にはS800をデビューさせ、3ヶ月後には特徴的なチェーンドライブ方式から、一般的なリジッド・アクスル方式へと変更する。このような大きな変更以外にも、Sシリーズは毎月のようにさまざまな部分を改良していたという。 改良は、最善を求めるホンダの熱意の発露ではあるが、当時はまだ熟成不足のまま市場に出していた面も否定できない。かつてのホンダのモータースポーツを意味する言葉ではないが、市販車であっても、まさに“走る実験室”だったのである。