ジャガーEタイプ 【1961~1975】

流麗な英国製スポーツカーの金字塔

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名車CとDに続く「E」タイプのデビュー

 ジャガーXK-EとかEタイプと呼ばれる(XK-Eとはアメリカでの呼称)大型の2人乗りスポーツカーが、英国のコベントリーに本社を置くジャガー・カーズから発表されたのは、1961年にスイスのジュネーブで開催されたモーターショーにおいてである。なぜ英国本国のショーではなく、ジュネーブ・モーターショーが発表の場に選ばれたのだろうか? それは、Eタイプが英国内市場以上に国際的なマーケットを狙ったモデルだったからだ。Eタイプは、生まれながらに全世界の市場を目標にしたグローバルスポーツだった。

 XK-EおよびEタイプといわれる車名は、アルファベット順のネーミング、とすると前型はDタイプであることは容易に想像がつく。かつてジャガー・カーズは、1948年デビューのXK-120という高性能スポーツカーで話題を集め、アメリカへの輸出で大きな成功を収めた。その功績で創業者のウィリアム・ライオンズは英国王室から“サー”の称号を授与されている。また、1951年にCタイプ(XK120C)、1954年にDタイプと呼ばれる純粋なスポーツレーシングカーを生み出し、ル・マン24時間レースで計5回の優勝を勝ち取っていた。

 XK-EあるいはEタイプは、レース用マシンであるCタイプやDタイプの直系となるモデルであった。もっとも、1957年にはXK-SSというDタイプをほぼそのままロードカーに仕立てた高性能モデルを完成させていたのだが、工場の火災により製作部品や組み立てジグなどを喪失し、わずか16台を“生産”したのみであった。このXK-SSに代わる高性能スポーツカーとして、XK-E=Eタイプが登場したわけだ。すでにジャガーの名は、英国製高性能スポーツカーの代名詞的な存在となっていた。

快適性と高性能の両立がEタイプの真髄

 Eタイプが登場した1960年代初頭のころから、世界的にスポーツカーを取り巻く環境は大きな変化を見せていた。スポーツカーによるレースは高度化し、一般的な市販型スポーツカーでは全く歯が立たない状況になっていたのである。メーカーが巨額の開発費を投じたレース専用の超高性能マシンが開発され、市販型スポーツカーはレースをするものではなく、レースを見に行くためのクルマに変わっていた。ゆえに新しく登場した市販スポーツカーであるEタイプは、まさにモータースポーツを見に行くためのクルマとして考えられていたのだ。

 だが、Eタイプが格好だけのクルマではなかった。性能的にもトップレベルにあったことは事実であり、わずかにチューンアップするだけでレースへも出場できるほどの高いポテンシャルを持っていた。この快適性とレースでも使える高性能の両立こそ、Eタイプを企画したウィリアム・ライオンズの狙いであり、Eタイプは見事にその狙いを実現したモデルであった。Eタイプは、まだまだスパルタンなスポーツカーが主流だった時代にあって、異色の存在だった。現代のスポーツカーに通じるモダンなコンセプトを具現化した先駆けの1台である。

日本では夢のまた夢の存在

 ちなみにEタイプが登場した1960年代初頭の日本では、1952年7月から漸く輸入車の売買が自由にできるようになり、よってEタイプも日本人が新車で買うことができた。それまではいくらお金を積んでも、新車を購入することはできなかったのだ。この当時、ジャガーの輸入代理店は新東洋企業で、ほかにフェラーリやサーブなども扱っていた。

 Eタイプの日本での価格は470万円から550万円だった。大卒男子の初任給が1万6000円程度という時代であったことを考えると、日本ではEタイプがとんでもない高価格車であったかがわかる。まさに夢のまた夢の存在だった。

ボディタイプはクーペ/ロードスター/2+2を設定

 1961年にデビューしたEタイプのボディ骨格は、モノコックとパイプフレーム構造を併用したもので、レーシングスポーツカーであるDタイプのものに近い。スタイリングデザインはジャガー・カーズ社長のウィリアム・ライオンズと元ブリストル航空機製造社にいたマルコム・セイヤーの合作であるという。徹底した空力的なスタイリングは、セイヤーの航空機製造の経験から生み出されたものといっていい。そのスタイルのよさと高性能、そして相対的な価格の安さで、Eタイプはたちまち世界的な人気車となった。

 1961年のデビュー当初、Eタイプは2シーターのロードスター(ジャガーでは英国でいうドロップヘッドを、アメリカ流に呼んでいた)とクーペのみの設定だったが、1966年からホイールベースを延長して後部座席を設けた2+2仕様が加わった。エンジンは当初、排気量3781ccの直列6気筒DOHC(XK型、出力265hp/5500rpm)を搭載していたが、性能向上を目的に順次排気量を拡大していく。1964年のマイナーチェンジモデルでは、エンジンの基本設計は変わらないものの排気量は4235ccとなり、最高出力は265hpと同一ながら、トルクは36.0kg・m/4000rpmから39.1kg・m/4000rpmへと大きく向上していた。1968年にデビューしたシリーズ2(これにより旧型はシリーズ1と呼ばれた)も4.2lリッターユニットを踏襲する。トランスミッションについては、4速マニュアルと1966年から2+2モデルに限って装備可能となったボルグワーナー社製3速オートマチックを選ぶことができた。

アメリカの安全基準に合わせてデザインを小変更

 サスペンションは前がダブルウィッシュボーン/縦置きトーションバースプリング、後はサブフレームに組み付けられたウィッシュボーンおよびトレーリングアーム/コイルスプリング。ブレーキは4輪ダンロップ製ディスクで、サーボ機構を備える。ステアリングはラック&ピニオンだが、パワーアシストはない。

 シリーズ1の半ばから外観に小変更を加えた。主力市場のアメリカの安全基準に合わせた結果だ。改良版はヘッドライトがシールドビームとなり、かつライトの位置を上げた(そのためプラスチックのカバーはなくなった)こと、フラッシャーユニットがバンパー下に移されたこと、前後フェンダー横にサイドマーカーが付けられたこと、テールライトの大型化、前面エアインテークの大型化、フロントウィンドウの角度が立ち上がって面積が増やされたことなどが特徴になる。実質的に安全性は向上したが、当初のEタイプが持っていたスタイルは大きくスポイルされてしまった。プロポーション自体に変更はないが、Eタイプは細部の造形まで吟味されていたため、印象が大きく変わったように感じられたのだ。

当時のスポーツカーとしては異例の7万台超を生産

 Eタイプは狭いながらも2+2として4人乗車を可能としたモデルを追加し、コンバーチブル仕様をドロップヘッドと呼ばずにロードスターと呼ぶなど、アメリカの市場を強く意識したモデル展開とした。それもそのはずで、Eタイプの全生産数の約80%はアメリカに渡ったという。

 Eタイプは1971年にデビューした5343cc・V型12気筒エンジン搭載のシリーズ3を含めて、生産中止となる1975年2月までの約14年間で各型合計7万2584台が生産されたという。おそらく、この種のハイエンドスポーツカーとしては空前絶後の生産台数だろう。スポーツカーの在り方を大きく変えた点で、古今の歴史に残る名車のひとつといっていい。

レースへの本格参戦を目指したライトウエイトEタイプ

 CタイプやDタイプでサーキットレースを席巻したジャガー車。Eタイプも、当然のことながらモータースポーツでの活躍が期待された。しかし、Eタイプの車両特性はどちらかというとGTカー的な味つけ。もちろんポテンシャルは高く、プライベーターがチューンアップを施したレース仕様は輝かしい戦績を残したが、1962年にフェラーリ250GTOが登場すると、その後塵を拝し続けた。

 このままでは“レースに強いジャガー”の名が廃る……。ジャガーファクトリーは、レース向けEタイプを製作することを決定した。開発の際に最も力を入れたのは、ボディの軽量化だった。当初は薄い鋼板を使ったが、後にアルミ材に切り替え、車両重量920kgというライトウエイトボディのEタイプを造り上げる。搭載する3.8リッターエンジンは300hpにまで出力アップ。足回りも大幅に強化した。アルミボディを被せたEタイプは計12台を生産。また、モノコックはスチール製のままボディパネルのみアルミとするセミライトウエイト仕様も2台ほど製作した。

 1963年シーズンから意気揚々とレース参戦したライトウエイトEタイプ。しかし、ジャガーの期待に反して目立った好成績は残せず、「ロー・ドラッグ・クーペ」と称する改良版に切り替えた1964年シーズンも不調のままに終わった。ちなみにこの年、ファクトリーでは新開発の4991cc・V12エンジンをミッドシップ搭載する新マシンの設計に着手。後に「XJ13」と呼称し、試作モデルも製作したが、会社自体がBMCとの合併でレースどころではなく、また社長のウィリアム・ライオンズも走行実験を認めなかったため、結果的にXJ13はレースに参戦することなく“幻のレースマシン”となってしまったのである。