トヨタの歴史3 第三期/1973-1983 【1973,1974,1975,1976,1977,1978,1979,1980,1981,1982,1983】
排ガス規制の克服と車種設定の拡充
乗り切ったトヨタ自動車工業は、
1970年代末になるとクルマの高性能化に着手し始める。
さらに生産工場や販売ディーラーの拡大も実施。
日本No.1自動車メーカーとしての地位を
確固たるものにしていく──。
国内の累計生産台数が1000万台を突破した1972年のトヨタ自工。勢いはこのまま続くかに見えたが、外的要因が同社を苦しめる。オイルショックによる物価高騰と公害問題に起因した排出ガス規制への対応だ。とくに問題となったのは排出ガス規制で、1970年代中盤まではその対策に追われることになる。
新触媒の開発などで当初の規制をクリアしたトヨタは、さらに厳しい昭和51、53年規制に向けて知恵を絞った。比較的大きめのM-EU型エンジンは電子制御式燃料噴射装置や三元触媒でクリアが可能。小型の4K-U型も従来型のオープンチャンバー型燃焼室と酸化触媒で克服できた。問題は中型エンジンである。技術陣はホンダのCVCCなどを研究し、独自のシステムとなるTTC(トヨタ・トータル・クリーン・システム)の開発にこぎつける。コアとなる技術は乱流生成ポット(TGP)付き燃焼室の採用で、これで希薄燃焼が実現できた。ちなみに点火栓位置はCVCCが副燃焼室の横側だったのに対し、TTCは入り口付近に配置している。トヨタはこのシステムに酸化触媒を装着して、厳しい規制をクリアしたのだ。
この排出ガス規制に苦慮した期間でも、トヨタは新型車をリリースし続けた。1973年4月にはスポーティイメージの小型車となるパブリカ・スターレットを発表。同年8月にはコロナがフルモデルチェンジを実施する。1974年に入ると、4月にカローラ/スプリンター、10月にクラウンが新型に切り替わった。1976年12月には新しいマークⅡが登場。さらに1977年6月にはマークⅡと基本コンポーネンツを共用した新しい車種のチェイサーをリリースし、トヨタの底力を世間に見せつけた。
排出ガス規制が一段落した1970年代末になると、トヨタ自工はその資金を工場や販売網の拡大に当てるようになる。工場では1978年に衣浦工場、1979年には田原工場が操業を開始。1980年には新販売ディーラー網のビスタ店が立ち上がった。海外では1977年にアメリカでトヨタテクニカルセンターUSAが設立されている。
新型車の内容にも、復活の兆しが見え始めていた。1978年2月には小粋なスタイリングを採用した新しいスターレットが単独ネームでデビュー。2カ月後には2代目セリカの上級バージョンとなるXXをリリースした。さらに同年8月にはトヨタ初のFF車となるターセル/コルサが華々しく登場する。ほかのモデルにも高性能のGTグレードが随時設定された。「トヨタはついに排ガス規制を克服した」と、当時の自動車マスコミ界では話題となった。
1980年代に入ると、トヨタ車の高性能化は一気に加速し始める。1980年3月には新しいパーソナルカーのクレスタがデビュー。同年10月にはトヨタ初のターボチャージドエンジンを搭載したクラウンが登場する。真打ちは「未体験ゾーン」のキャッチコピーで81年2月にデビューしたソアラだ。2.8L・DOHCエンジンやオールデジタルディスプレーのコクピットなど、すべてが高性能で斬新さにあふれていた。その後も魅力あふれる新型車のデビューは続き、とくにリトラクタブルライトを採用した2代目セリカXXや新種ワゴンのスプリンター・カリブ、上級サルーンのビスタなどが話題を呼ぶ。
クルマの高性能化の裏で、トヨタは重要な経営戦略を打ち出す。82年に実施されたトヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売の合併だ。新しい社名はトヨタ自動車となり、開発から販売までをトータルでプランニングする新体制を構築した。ここからさらに、トヨタの積極攻勢が展開され始めるのである──。