スバル450 【1960,1961,1962,1963,1964,1965,1966】

余裕のパフォーマンスを誇った小型車のテントウ虫

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設計者の理想像を目指した450

 1960年10月にデビューしたスバル450は、1958年3月に登場した傑作軽自動車、スバル360の発展版である。具体的に言えばスバル360の強制空冷2サイクル2気筒356ccエンジン(18ps/4700rpm、3.2kg・m/3200rpm)の排気量を、423cc(23ps/5000rpm、3.8kg・m/3500rpm)に拡大した小型乗用車だ。軽自動車の排気量制限である360cc以下という規格に捕われることなく、エンジンのキャパシティアップを図ることで余裕ある走りを実現しており、いわば設計者が考える”理想のテントウ虫 “だった。

 スバル450は、三菱500(1960年4月登場)や、トヨタ・パブリカ(1961年6月登場)など、小型車クラスのライバルに対抗するモデルとして企画された。スバル360は合理的な設計手法と優れた走りで、デビュー後、軽自動車クラスのリーダーカーの位置を瞬く間に手にする。そして登場後も、1958年後期型でサイドウィンドウに3角窓を、1959年ではカウルベンチレーターを新設。1960年後期型でシフトパターンを横H型から一般的な縦H型に変更し、2−3速にシンクロメッシュ機構を加えるなど、完成度を高めていく。しかし技術は日進月歩で進歩している。傑作車スバル360でもデビュー後数年が経過すると、新設計のライバル、ましてや軽自動車ではなく、制約条件の少ない小型車との比較では見劣りする点が散見された。

大型バンパー採用、燃費は25.0km/ℓをマーク

 スバル450は、ライバルに対する劣勢を一気に吹き飛ばす意欲作だった。前述のようにエンジンは23ps仕様の423cc。最高出力は排気量493ccの三菱500(21ps/5000rpm)よりパワフルで、排気量697ccのパブリカ(28ps)に迫るレベルだった。3速トランスミッションを介したトップスピードは102km/hに達した。この数値はスバル360や三菱500の90km/hを大きく凌ぎ、100km/hの壁を超えるもの。当時はまだ合法的に100km/hで走行できる高速道路は開通していなかった。とはいえ最高速100km/hオーバーは、走りの余裕を語る上で強いメッセージだった。また坂道も得意だった。スバル450の最大登坂力は18度。カタログでは「箱根(湯本—芦の湯)でもセカンド、トップで楽に登れます」とアピールし、坂道をグイグイと登る力強さを表現した。

 スバル450は、エンジンだけでなく安全装備面でも大幅な改良を加えていた。前後バンパーは前後ともにオーバーライダー付きの大型タイプを採用。ヘッドランプには明るい大型シールドビームを採用する。周囲に警告を与えるホーンも強力タイプだった。快適性面でも開閉式のリアサイドウィンドウやヒーターを標準装備するなどリファインを加えていた。

 スバル450のボディサイズは全長×全幅×全高3115×1300×1360mm。スバル360と比較して全長のみ115mm拡大していたが、幅と高さは共通のコンパクトサイズだった。したがって最小回転半径は4mと小回りが利き、車重が405kgと軽量だったこともあり、定地走行燃費データは25.0km/ℓと優れていた。つまり、スバル450は、パワフルでコンパクト、そして燃費に優れた理想的な4シーター乗用車だったのだ。価格は39万7000円に設定された。

販売を阻んだ意外な事情とは!?

 スバル450の販売は伸び悩む。それは税金など高いランニングコストが足かせになったからだ。軽自動車のスバル360は自動車税も保険なども、小型車登録となるスバル450に比べて圧倒的に安かった。だからわざわざスバル450を購入するユーザーは少数派だった。確かにスバル450の走りは数段優れていたが、スバル360でも満足できるレベルに達していたからなおさらだった。

 もうひとつ、モータリーゼーション黎明期ならではの事情があった。せっかく小型車を購入したのに、スバル450ではご近所さんへのアピール力が弱かったのだ。1960年代初頭の自動車、とくに乗用車はステータスシンボルだった。クルマは性能と同時に、見た目や立派さが重要だった。スバル450は大型バンパーを備えていたとはいえ、基本スタイルはスバル360と共通。軽自動車の仲間としか周囲は認識しなかった。小型車を購入するなら三菱500やパブリカ、あるいは無理をしてもブルーバードやコロナというのが、当時のユーザー心理だった。

欧州輸出を意識していたスバル450

 コンパクトサイズのなかに優れた機能を凝縮したスバル450は、欧州の小型車に通じるアイデンティティの持ち主だった。メーカーでは欧州への輸出も検討していたようだ。その証拠に正式発売前に当時運輸省の技官だった宮本晃男氏の欧州諸国訪問や、東京工業大学助教授、桶谷繁雄氏の欧州・ソ連1500km走行挑戦にスバル450を提供し、欧州での適性を検証していた。

 「性能的にはフィアット500と同等以上で、走りは欧州でも通用する」と両氏のお墨付きを得た。その結果「スバル・マイア」のネーミングで輸出されたが、販売拠点やサービス供給の面で課題が残り、残念ながら輸出は少数に終わり、本格輸出は見送られた。スバル群馬工場の見学順路には、欧州を走行したスバル450の写真が飾られている。