ランドクルーザー40 【1960,1951,1952,1953,1954,1955,1956,1957,1958,1959,1961,1962,1963,1964,1965,1966,1967,1968,1969,1970,1971,1972,1973,1974,1975,1976,1977,1978,1979,1980,1981,1982,1983,1984】

世界へ羽ばたいた国産4WDの王者



1951年のトヨタ・ジープBJから、
ランクルの輝かしい歴史は始まった。
1960年に登場した40系は、おおよそ25年もの間、
ラインアップの中核を担ったロングセラー。
この40系の人気を決定付けたモデルが、
1974年に登場した
3リッター・ディーゼル搭載のBJ40系である。
軍用向け4WDから始まる歴史

 今や、世界最強のオフロード向き4輪駆動車の名声をほしいままにしているトヨタ・ランドクルーザーの始まりは意外に古く、第二次世界大戦末期にまで遡る。

 旧日本軍の敗色が濃厚になりつつあった1943年になって、日本陸軍はアメリカ軍から捕獲した軍用Jeep(ウィリスMBやFord GPW)をテストし、その性能の素晴らしさに感嘆、同様の軍用4WDの開発を決定する。それまでにも、後に3輪トラックのメーカーとして知られることになる日本内燃機が造った「くろがね4起」と言う小型4WDはあったが、それはモーターサイクル用の排気量1200cc空冷V型2気筒エンジンを搭載していた程度だったから、とてもJeepのような高性能は望めなかった。もっと大型で強力なエンジンを搭載した本格的なオフロード向き4WDが求められたのだ。

日本陸軍は、当時存在した自動車メーカー各社に開発を急がせた。その中でトヨタがようやく試作車を完成させるまでに開発を進めていた。しかし、1945年の敗戦までに、4WDを製品化することはできなかったという。それが、「AK10型」と呼ばれるモデルで、排気量2584ccの直列4気筒OHVエンジンを搭載する。4WD方式はウィリスMBなどと同じ3速トランスミッションに手動切り替えによる高低2速のトランスファーギアを組み合わせたパートタイム4WDだった。量産前試作車を含めて5台が造られたところで敗戦となった。

 長い戦争が終わってみると、とくに直接的な戦場となった国々(日本もその例外ではなかった)では、道なき道を縦横無尽に走り回ることができるオフロード向きの4WDが、国家の復興になくてはならない存在となった。

また、ヨーロッパ各国では、戦勝国であれ、敗戦国であれ、各々の国情や社会情勢に適合した大小さまざまな4WDが、独自の開発やウィリス社からのライセンスにより生産されるようになっていた。英国の「ランドローバー」やフランスの「オチキス」、イタリアの「アルファロメオ」などがよく知られている。また、アメリカでは大量に余剰車両となった軍用Jeepが一般向けに市販されたりもしていた(アメリカの若者たちは、荒野を走り回るJeepingという新しいアウトドアスポーツを始めたほどだった)。

 一方、日本では、1950年に現在の自衛隊の前身である警察予備隊が発足、機動性向上のために専用の車両が求められた。もちろんオフロード向き4WDである。トヨタは、先の戦争中に開発していた「AK10型」の経験を生かし、警察予備隊向けとして新しい4WDを開発した。これが1951年に発表された「トヨタ・ジープBJ型」である。

ところが、この「トヨタ・ジープ」の車名に対して、アメリカの本家本元のJeepの商標権を持つウィリス社から、商標権侵害の恐れがあるとのクレームが付けられ、トヨタでは急遽「ランドクルーザー」という名前に変更した。同様のことは他のメーカーでも起こっており、やはり警察予備隊向けの4WD「日産Jeep」を発表した日産では、車名を「日産パトロール」へと変更したという。「ランドクルーザー」誕生の裏話である。

 トヨタも日産も、警察予備隊への採用を見込んで本格的な4WDを開発したのだが、結局は三菱がノックダウン生産を開始していた三菱Jeepが採用されることになった。おそらく、当時日本を占領統治していたGHQ(General Headquarters=連合軍総司令部)の意向によるものだったのだろう。トンビに油揚げをさらわれた格好である。

それはともかくとして、「トヨタ・ランドクルーザー」や「日産パトロール」は、最大のマーケットを失うことになってしまう。残るは一般市場であったが、当時はクルマ自体が普及しておらず、SUVなどとして量販できる状況にはなかったから、その販売は限られたものになってしまった。すでに、「三菱Jeep」は、警察や公官庁への納入を急速に拡大しており、国民の多くは国産のオフロード向きの4WDはすべて「ジープ」と呼ぶようになっていた。

「ランドクルーザー」は、1954年にフルモデルチェンジされ、5トン積みトラックに使われていた排気量3878ccのF型直列6気筒OHVガソリンエンジンを搭載してFJ20となった(車名のFはF型エンジンを意味する)。少なくとも、このエンジンが組み合わされたことで、「ランドクルーザー」は世界最強の4WDになったと言える。高価な開発費を注ぎ込んだ「ランドクルーザー」だったが、公官庁への採用が見送られたとなれば、後は海外市場へ活路を求めるしか手段はない。

1950年代末から1960年代初めの時代では、国産車もようやく輸出ができるようになったばかりであったから、「ランドクルーザー」のような頑丈で信頼性に富むオフロード向き4WDは、格好の輸出モデルとなったのだった。同じころ輸出が開始されたトヨタ製の乗用車であった「トヨペット・クラウン」が、アメリカやヨーロッパで品質上や性能上のトラブルを頻発していたのとは対照的に、本格的なオフロード向き4WDとして設計されていた「ランドクルーザー」は、結果的に信頼性の高さと性能の良さを生み出すことになり、輸出された国々でたちまち高い評価を得ることになる。まさしく、諺とおりの「瓢箪から駒」のような話である。

 1960年には、再びフルモデルチェンジされ、FJ40系となる。FJ20系と構造上の基本的な違いはほとんどないが、外観ではフロントグリルの意匠が変えられ、内装を高機能化、シートの形状を変えるなどして居住性を向上させている。面白いのは、国産車には珍しく、インスツルメンツパネルが左右対称型にデザインされていたこと。ドライバーの正面にある速度計を含むメーターパネルと、助手席側のグラブボックスのカバーが同じ形をしているのだ。これは、輸出に際してステアリングの位置を、左右どちらでも簡単に変更できるための手段であった。「ランドクルーザー」の輸出モデルに限って、ピックアップやパネルバンなどバリエーションが増やされている。

また、ランニングコストなど経済性を考慮して、新開発の排気量2977cc直列4気筒ディーゼルエンジンを搭載したBJ40(車名に使われているBは、B型エンジンに由来する)も発売され、国内ではBJが主力となった。1977年までに総生産台数50万台を突破した「ランドクルーザー」は、4年後の1981年には100万台を突破する。この間、国内需要については少数でほとんど横這いだったのだから、如何に輸出が好調だったかが分かる。「ランドクルーザー」の評価は、日本国内よりも輸出された海外で圧倒的だった。国産車としては珍しい経緯をたどったクルマであった。

COLUMN
高い人気を誇ったランクル40系の歴史は、四半世紀に渡る
ランドクルーザーの歴史を語るうえで、最も注目される40系。1960年1月に、FJ40系として産声を上げた。デビュー時には、ショート(2285mm)、ミドル(2430mm)、ロング(2650mm)の3つのホイールベースを用意した。ショート(FJ40)とミドル(FJ43)は、ソフトトップ。ロング仕様であるFJ45Vは、4ドアステーションワゴンタイプのボディーを持っていた(1967年7月、50系のデビューにより生産を打ち切る)。40デビューの翌年の1961年には、ショートの派生モデルとしてバンボディーのFJ40Vを登場させている。1974年、ディーゼル仕様のBJ40系が登場。その後も改良を重ねた40系は発展を遂げていき、1984年11月の70系の登場までというほぼ四半世紀にもおよぶ長い年月の間、生産された。ラインアップの中核をなすモデルとして、世界中にその足跡を残しランクルの名を知らしめたのである。